神戸の近代建築@

    No.54.....2007年3月17日(土曜)


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神戸の近代建築物を訪ねた。建築様式の初学者の私としては、@教科書に書いてある建築用語を覚え、A様式の特徴を覚え、B多くの建物を実際に見て、これらを当てはめ、を繰り返していけば、いつかは自分なりに判断できるのではないかと思っているのだが、独学というのはなかなか難しい。

本に書いてある用語の読み方からして不明である。例えば「組積造」はどう読むのか。あるいは「RC造」「SRC造」とは何であるのか。(RCは鉄筋コンクリート造、SRCは鉄骨鉄筋コンクリート造であることを最近知った) まあ、頼りないことである。今日の教科書も以下の3冊である。
  1. 日本の近代建築(上)・藤森照信・岩波新書
  2. 日本の近代建築(下)・藤森照信・岩波新書
  3. 建築MAP大阪・神戸・ギャラリー間・TOTO出版
上記の本から神戸(中央区に限定した)に残っている近代建築物を地図にプロットしたら、大阪と同じく30か所を超えた。一巡りするだけでも大変である。これだけ多くの建物を一度に見て、はたして印象が薄れることはないないのか、見落とすものが多いのではないか。少し不安である。

ここでは「神戸の近代建築@(旧居留地)」をまとめた。


JR三ノ宮駅に着いたのが10時少し前。前回兵庫・会下山に行ったときは北口から出たが、今日は南口(浜側)に出た。

震災前の駅舎は高架下にあって、プラットホームに立つ乗車客が遠めに見えたような記憶があるが、今は駅ビルのような7〜8階のビルが建っている。ターミナルホテルだという。


駅前には「そごう」がある。震災後立て直されたが、以前とは違うデザインになっている。「そごう」らしい先進のハイカラな建物である。

海に向かってフラワーロードを南下する。写真は税関前の歩道橋から振り返って撮ったもの。ペンシル型のビルは神戸市新市庁舎。設計は日建設計。1989年の竣工というから震災時にはすでに建っていたのか。

手前の杜は東遊園地。遊園地とはいっても子供向けの乗り物やブランコはない。大人のための広い公園である。


歩道橋から西を向いて撮る。最上階が全面ガラスの高いビルはホテルオークラか。左の黒っぽいビルは神戸駅前に建つクリスタルタワーだろう。その左横手前に赤いポートタワーが見える。

眼下の道は国道2号線である。この2号線のある区間は「海岸通り」と呼ばれる。どの区間をいうのか正確には知らないが、たぶんこの税関前交差点からから神戸駅近くの弁天町あたりまでではないか。というのはこの間に、東から順に新港第4突堤〜第1突堤→メリケン波止場→中突堤が並んでいるからである。

歩道橋を降りた。頭上には高架道路が3本も架かっている。阪神高速神戸線であり、浜手バイパスと呼ばれる2号線のバイパスである。よって高架下は暗い。

道路の向こうに「神戸税関」がある。大きな建物である。左端に三菱のマークがある白い建物は三菱倉庫であろう。

うかつなことに私は「神戸税関」は初めて見るのである。2号線はトラックやコンテナを積んだトレーラーがけたたましく行き交っているので、2号線を越えて波止場まで足を延ばすことは滅多になかった。

ほぼ40年前の学生時代は、JR北の飲食街、南では駅前のそごう・三宮センター街・元町通り、ダイエーがあった通り(何通りというのか)から大丸あたりのごく小さいエリアを動き回っていたに過ぎない。


(上図)堂々の大建築物である。昭和2年の竣工。設計は大蔵省営繕課。おそらく当時の神戸の建物としては最大規模であったのではないか。

平面は「ロ」の字型であるようだ。昭和2年の竣工であるから鉄筋コンクリート造であろうが、1階はラスティカ(石積)、2〜3階の壁面は煉瓦である。ただしメインの部分は石造である。

北東角上部に時計塔があるから、ここが正面であろう。3つのアーチ門の上に、両端はピラスターで、中央に2本の半円柱が2階から4階を通して立つ、堂々のオーダーである。

(右図)長い信号待ちをしてようやく建物前にきた。写真は南東角。こちらはアーチ門が1つ。門上のオーダーは細く幅が狭い。





シロート考えでは、石造のクラシック様式と、煉瓦の壁や細長い窓でわかるようにゴシック様式の折衷であるように思われた。

建物は東西に長い。四隅と東西の中央(南と北に各1つずつ)がクラシックである。ここは上から下まで石造。その間をゴシックの煉瓦造が繋いでいる。

オーダーに集約されるクラシック様式は、列柱が基本である。柱がどういう太さで、どれだけの間隔をあけて並んでいるのか。柱の長さと支える梁(エンタブラチュア)の厚さの関係はどうか。によって均整がとれているかどうかが決まる。どちらかというと水平方向のバランスを重視しているとシロートは思っている。

一方ゴシック様式は上へ上へと伸びる様式である。窓は縦に長く、柱は壁面から出っ張り、下から上まで直線的に伸びる。その先には尖塔があって、天までとどけといった按配である。





2つの様式を折衷したことで、ややチグハグな感じがする。例えば軒の高さが違う。ゴシック部分は高く、クラシック部分は低い。壁面はクラシック部分は奥まり、ゴシック部分は飛び出ている。

時計塔の様式はわからない。だが「塔」自体がロマネスクやゴシックの系統であろう。塔は上昇志向の建物である。この塔の細長い窓、その間にある出っ張った柱や時計を包む細長いアーチ型はゴシック系であるか、とシロート。

面白い建物である。今次の震災で半壊し、神戸税関は新しく建て替えられたが、外壁が再構築され、往時とほぼ変わりない外観になっているという。






神戸税関の東側に道を挟んで「神戸農林水産消費技術センター」のビルがある。「旧神戸市立生糸検査所」であったらしい。神戸市営繕課の設計で昭和2年に竣工。神戸税関と同じ時期の建物である。

それにしては軽やかな感じのする建物である。全体は灰褐色であるが階と階の間は明るい肌色のタイルが貼られている。色はパステルカラーといってよいほど明るい。これほど明快な色彩を持つ建物が昭和2年の竣工とはとても信じられない。

震災に無事耐えたのか。そうであれば建物全体を洗ったのか、あるいはモルタルか塗料を吹き付けたかであろう。


全体の様式はモダンデザインであるといってよいかと思うが、部分的にゴシック様式を意図している。中央に2本立つ柱は頭頂部で塔のようになり、その塔はずらされた4枚の板で補強されている。

2本の柱の間には4つの尖塔とでもいうべき飾りがある。窓と蛇腹は細い外柱のような垂直線で区切られ、垂直方向が強調されている。軒は手前に傾斜し、そのため細い柱の頂部は鋭角にとがり、上に伸びようとする意思を表明している。

窓は2つあるいは3つが横に並んで1セットになっているが、そのセットとセットの間には建物の下から軒まで垂直に柱が立っている。

ゴシックの教会の外壁には薄い壁面を支えるために「控え壁」といわれる柱がついている(離れているのはフライング・バットレス(飛び梁)と呼ばれる)が、それをデザインに取り込んだものだろうか。



正面玄関を見ると、これは完全な ゴシック様式の尖頭アーチである。しかも壁の厚さを意識させないように4段階の段差がつけられている(刳り形)のは、カトリックの大聖堂の入り口とまったく同じ様式である。


「旧神戸市立生糸検査所」の南側を奥に入ると、「旧国立生糸検査所」が並んで建っている。ここも外壁に「控え壁」のような柱が飛び出しており、いやがうえにも目線は下から上、上から下へと上下する。

様式はゴシックである。この建物は旧館で、「旧神戸市立生糸検査所」はこの建物のゴシック様式を受けて建てられたのかと思ったが違った。

「旧国立生糸検査所」は昭和7年の竣工である。「旧神戸市立生糸検査所」よりも後に建てられたものである。設計は置塩章(おじお・あきら)。




「旧神戸市立生糸検査所」の5〜6倍の大きさがある。道路を越えて三井倉庫の前に行って、ようやく全体が見渡せるほどのスケールである。わかることからいえば、4階建てのスクラッチタイル貼り。軒が白いのは石が貼ってあるのだろう。


東南の角部は6階。最上部の外柱は白く、先端は斜めにカットされて尖っている。

ロンドンのウェストミンスター宮殿(国会議事堂)のような感じでありますな。


初めて目にするゴシック(正しくはゴシック・リバイバル)の建物である。と思ったが、置塩が設計した建物は、4年前に大阪・上町筋 で見ていたのである。

大阪城の脇にある「大阪砲兵工廠化学分析場」(左図)が彼の手になるものである。置塩は陸軍省に入り、大阪の第四師団に配属され、ついで大阪砲兵工廠に勤務したという。第四師団司令部は大阪城天守閣横にある旧大阪市立博物館の建物にあった。そうか大阪で勤務していたのか。

その後兵庫県庁に移り、兵庫県の公共施設を設計する。昭和3年に退職し建築事務所を開く。「旧国立生糸検査所」は置塩建築事務所の手になったことになる。


「旧神戸市立生糸検査所」の南、道一本はさんで「新港貿易会館」がある。建築MAPによると「旧新港相互館」といい兵庫県営繕課が設計、昭和9年に竣工したとある。

ビル名は「貿易XX」ではないから、税関・検疫あるいは荷役に従事する者のための建物であったのだろうか。今はテナントビルである。

4階建て、スクラッチタイル貼り。目立つ装飾はないが、軒下に大きな丸窓、1階にも2つの丸窓が並んでいる。間にある窓は他の階の窓の位置とずれているから、そこは階段になっているのか。

大正期から装飾を廃したモダンデザインが興隆してくるが、この建物はモダンデザインに区分できる(とシロートは思う)。


倉庫が立ち並んでいる。倉庫の左は海である。

神戸港が開港して初めて作られた突堤は中突堤あるいはメリケン波止場であったかと思うが、明治末に東の海岸に新港が作られた。新港は4つの突堤が突き出ている。西から順に第1突堤・第2突堤・第3突堤・第4突堤である。

「旧国立生糸検査所」の全体像を撮ったのは三井倉庫前からだが、そこは第4突堤の付け根である。第3突堤には三菱倉庫があり、写真の住友倉庫は第2突堤にある。

その西隣は川西倉庫で、第1突堤の付け根にある。

建築MAPの地図上に、各倉庫の設計者が書いてある。三井倉庫工務課とか三菱倉庫営繕課は自社のメンテナンス部門が設計したようだが、住友倉庫は住友合資会社工作部とある。ひょっとすると長谷部鋭吉あるいは竹腰建造もこれにかかわったのかも知れない。

川西倉庫は渡辺節建築事務所とある。渡辺は倉庫まで手がけているのか。

倉庫であるが「冷蔵庫」と書いてある。窓はない。倉庫であるから装飾の必要はない。渡辺はどこで渡辺らしさを表現することができるのだろうか。屋上にある塔の上の弓型の屋根がそのひとつか。基底部を石積みとしたのがそれか。


倉庫脇を通って海側に出た。倉庫としてはこちらが正面であろう。小窓がいくつか開けられている。あっ、角にアールがとってある。軒もある。これが倉庫に加えることができるギリギリのデザインなのかも知れない。

建築MAPに「関西建築界の歩み」(石田潤一郎)という囲み記事があって18章ほどで関西の建築家の歴史を述べてあって、非常にためになっているのだが、その中に「敗戦後の新陳代謝」という章がある。

これによると、昭和12年に鉄筋コンクリートと鉄骨構造の建築がほぼ禁止され、昭和14年には100平方m以上の木造建築もほぼ禁止されたようである。建ててよいのは軍需施設だけになったらしい。



戦後も朝鮮戦争の軍需景気によって復興に弾みがつくまでの約10年間は、建築家にとって空白の時代であったという。しかも関西では復興は繊維工場などが先になる。

『貧しい戦後社会の中では、歴史主義を保持する彼(渡辺節)の作品は不完全燃焼で終わらざるを得なかった。』と書かれている。

こういう状況下にあって、かろうじて設計したのが、この川西倉庫だったということか(倉庫の竣工がいつなのかは知らないが)。





川西倉庫から5分ほど北上して2号線の京橋交差点にきた。

向こう(北側)の左手にある列柱の建物は「神戸市立博物館」である。むろん今日の訪問予定地のひとつである。





2号線の左(西側)を見るとクラシックな建物がある。手前は「チャータードビル」で、西隣は「神港ビル」。2号線(海岸通り)には「商船三井ビル」・「海岸ビル」「神戸郵船ビル」などが目白押しに並んでいるのである。

京町筋を北上するか、海岸通りを西に行くか迷ったが、海岸通りを先にした。渡辺節の「商船三井ビル」を早く見たかった。


チャータードビル。旧チャータード銀行神戸支店。JHモーガンの設計で昭和13年の竣工。

正面のオーダーは両端がピラスター(片蓋柱)、3本のイオニア式円柱。左右の出入り口はペディメントが乗る。

2階3階の窓回りに装飾はなく平面的であるが、すっきりして好もしい。


1階の軒上には壷の彫刻が柱と同じ位置に据えられていて、これがオーダーの冷たさをやわらげている。

窓の内には白いカーテンが見える。2階3階はレストランになっているようだ。

インターネットで調べるとチャータード銀行があった。「スタンダード・チャータード銀行」が正式な名称であるらしい。HPでは1880年代に横浜に出張所を開設し、中国・香港・インド・マレーシア・シンガポール・タイ・アラブ首長国連邦を主な市場としているとある。

神戸・横浜が開港したとき、おそらくは香港や上海の冒険的商人が日本にやってき、それを追ってチャータード銀行も横浜に店を出し、横浜の次に神戸に店を構えたのであろう。



隣は「神港ビル」。元は川崎汽船の本社ビルであったようだ。設計は木下益次郎。昭和14年の竣工。鉄筋コンクリート造の8階建て。

現代のビルに近い。塔を除いて装飾はほとんどない。シロートの感想ながら、戦前のオフィスビルは、1階と最上階は特別なものであったらしく、@1階上に軒をつけ、A最上階の下に蛇腹を巻き、B最上階の軒に模様を入れる、という建物が多い。

「神港ビル」もそうである。1階上に浅い軒があって櫛状装飾(デンティルというらしい)が施されている。7階と8階の境は簡単ながら波板状の帯がつけられている。



軒蛇腹には花模様であろうか、薄く彫られた連続模様がある。最上階の窓だけは見込みが3段階になっていて、窓の上に小型の貼り付け柱的な装飾がある。

塔のデザインは異色である。四隅の太い石の柱がガラスを囲っている。ガラスの外(内?)には格子があり、各格子の中に丸を基調とした模様が透かし彫りにされているかのようだ。

塔の4隅に切り立つ意匠はなんであるのか。花弁のようでもあり、太陽のようでもある。塔の軒下の模様が「波」であるとするならば「旭日」かも知れない。

建築MAPでは「アールデコ風意匠」であるとある。ならこの意匠の意味を考えても無駄である。意匠には意味はない。



ビル2棟を通り過ぎると「商船三井ビル」である。

藤森さんの「日本の近代建築」の白黒写真で見、建築MAPのカラー写真で見て、このビルは最も強い印象を受けていた。ぜひとも実見したかったのだ。このビルを見るために神戸にやってきたといってもよい。

遠くから眺めて、色調の落ち着いたビルであることがわかった。白黒写真では形はわかるが色はわからない。建築MAPのカラー写真では全体が茶褐色の印刷になっていて、煉瓦貼りかと思えるほどだったのだが、嬉しいことに違った。白の石とアイボリーのタイルの色彩の組み合わせが上品である。

「これはすごい」。珍しく気が急いてセカセカと近寄った。





「旧大阪商船神戸支店」で、大正11年の竣工。設計は渡辺節。

渡辺や村野藤吾が渡米してアメリカンボザールを学んだ後の最初の建築物である。

1階はラスティカの石積み。

2階から6階の胴部は石貼りとアイボリーのタイル(テラコッタ?)。深い軒下にはメダリオン。

最上階の7階はアーチ窓。窓と窓の間にも小さな縦長の装飾がある。

隅部の頂点にはペディメントが乗る。アメリカン・ルネッサンス様式である。






私の力量では、この建物の説明はしきれないので、藤森さんの「日本の近代建築(下)」から引用させていただくと、



『角を正面にした時の古典様式の納め方は難事の一つで、普通なら角にペディメントと柱型でも配して手堅くすり抜けるところを、渡辺は独創的なやり方を試みている。』

それは、『ポイントはペディメントの代わりに採用されたスワンネック(白鳥の首)と各所に点ぜられたメダリオンで・・・』

(左図)『まず一階の出入り口の頭上に力強くうねるスワンネックを取り付け、上方に小さなメダリオンをちょっとつけ・・・』







『そこから上はしばらく平坦に壁が伸びて、軒に当たったところで左右に二つずつ、花房で縁どられた大ぶりのメダリオンを配す。』



『そして軒の上には小さなスワンネックの乗るパラディアン・ウィンドウ(三角窓)を開け、さらにそれを包むようにして壁を半円形に盛り上げ、縁をスワンネックで型どり、中央に変形したメダリオンを置く。』



『ラスチカ積の力強い石の壁をバックに、スワンネックとメダリオンが強弱巧みに組合され、華やかで力動感に満ちた「角の正面」を可能とした。

古典様式は、使える造形要素は限られ、組み合わせの制限もうるさいけれども、腕とセンスさえあればここまで自由に演出できるのである』。絶賛といってよい。

渡辺節の「綿業会館」「ダイビル」よりも、こちらのほうが上であろう。たぶん大阪・神戸にあるすべての近代建築のなかでの最高傑作ではないか。美術品といってもよいくらいである。


道路を挟んで「海岸ビル」がある。「旧三井物産神戸支店」であったという。河合浩蔵の設計で大正7年に竣工。

大震災でこの建物は倒壊したが、新しく建設された新ビルの低層部に外壁を再構築したという。

河合は藤森さんのいわれる「歴史主義の第1世代」である。河合は工部大学校を卒業後、工部省に入り、妻木頼黄・渡辺譲らとドイツに留学し、以来数少ないドイツ派の代表として活躍する。

明治30年には退官し、明治38年に神戸で建築事務所を開設する。ために河合の建築物は神戸に多く残っている。


隣の渡辺節の商船三井ビルの竣工は大正11年。それに先立つこと4年前の竣工であるが、いかんせん渡辺の「商船三井ビル」がよすぎる。

日本には少ないドイツ派の貴重な作品ではあるが、シロートにとってはまとまりがないという印象である。

藤森さんは、この「海岸ビル」を例にして以下のように述べられている。

『土台、柱、軒回り、窓、といった各部ごとの形の文節が無くなり、かつ、各部ごとの固有の造形も消えて、下から上まで幾何学模様の凹凸が続く。

歴史様式の基本である、造形、関係、比例の三つがいずれも崩れ、壁面には石のカケラがバラまかれている。

一つの原理が崩れながらしかし代わる原理が現れていない、そういう状態』

に第1世代は追い込まれていたのだそうだ。


その原因は

『20世紀に入ってにわかに勢いを増した反歴史、反装飾のモダンデザインの風圧に違いないが、第二、第三世代は、同じ風圧をより強く肌に感じながら、しかし河合のように袋小路に入ることなく・・・』

新しい道を探した。

その1つが@アメリカンボザール(アメリカ派)であり、Aより深く歴史主義を理解する道(ヨーロッパ派)、Bモダンデザインのセンスを歴史主義に取り込む道(新感覚派)、だったといわれる。

渡辺は@のアメリカンボザールに活路を見出し、商船三井ビルという大傑作をものにするのであるが、渡米前の渡辺も

『歴史様式の骨格をとどめながら細部を幾何学的に崩すという河合の晩年の作と同じで、明らかに歴史主義とモダンデザインの谷間に落ち込んでいた』

とも言っておられる。


「商船三井ビル」と「海岸ビル」にはさまれた道を1ブロックだけ北上し、東に向きを変えると「旧居留地15番館」がある。もとは米国領事館で、竣工は不確かながら明治10年代(1880年ころ)といわれている。重文であったが震災で壊滅し、同じ部材を使って再建されたという(今も重文であるのかどうかは知らない)。

居留地というのは神戸港開港に当たって、外国人の居住や通商のために区画整理された場所で、東は生田川(今のフラワーロード)、西は鯉川筋、北は西国街道、南は海岸で限る地域である。

地図を見ると、北東が神戸市役所、南東が関税前交差点、北西が大丸、南西が「海岸ビル」のあるブロックで、旧居留地の地域だけは碁盤目のように道路が直交していて、計画的に開発整地されたことがわかる。



居留地は治外法権の地域であった。明治32年(1899年)に不平等条約がなくなり居留地は日本国のものとなった。むろん法外な金額を差し出して居留地を買い戻したのであろう。

「旧米国領事館」は木骨煉瓦造であるという。藤森さんによれば、

『建築の構造は、木による軸組構造と煉瓦や石による組積造に大別されるが、1枚の壁のなかで両者が背中合わせに並存するという世にも稀な作り方である』

のだそうである。

『ヨーロッパにはほとんどないが、アメリカでは田舎の駅舎や倉庫などで使われ、現在も木造の外側に煉瓦を張りつけたような住宅がたくさん作られている。

おそらく煉瓦や石が入手しづらかった開拓期に、せめて外見だけでも組積造に見せかけようとして発達したコロニアルな技術と考えられる』

2階はヴェランダで、両脇に2本セットになった角柱が立ち、その上にペディメント(三角破風)が乗る。ヨーロッパの古典様式+コロニアル(植民地)で考えだされたヴェランダ。そこにアメリカ直伝の「木骨石造(煉瓦造)」が混じった建物である。



「旧米国領事館」は神戸市立博物館の裏側と道路を挟んで隣接している。写真は旧領事館と同じ道沿いにある博物館の側面。壁面にピラスター(片蓋柱)が並んでいる。

(次図)正面は京町筋に面している。元は横浜正金銀行神戸支店で、昭和10年に竣工。設計は桜井小太郎。

桜井は歴史主義の第2世代である。同じ世代には横河民輔・長野宇平治・武田五一・中條精一郎・野口孫市らがいる。第2世代は3つの方向(@アメリカ派、Aヨーロッパ派、B新感覚派)に分かれることはすでに学んだ。桜井はロンドン大学を出たヨーロッパ派である。

藤森さんは、ヨーロッパ派を代表するのは中條と長野であるといわれる。民間建築では『フランス、アメリカ風の派手さやドイツ風の武張りが嫌われ、イギリスの味が求められた』。ヨーロッパ派は『やさしさ、切れ味、上品といった言葉で形容される空間の質を生命として』いるのだそうである。






銀行は当初さまざまなスタイルであったが、大正5年に長野が三井銀行神戸支店で6本の列柱を前面に押し出して以来、銀行の建築スタイルができたといわれる。


『以後銀行建築は列柱のクラシシズムとラスチカ積みのクラシシズムが大勢を制し』、前者の例としては日銀岡山(長野)、三菱銀(桜井)、勧銀(渡辺節)、明治生命館(岡田信一郎)、三井銀大阪支店(曾禰中條)。後者では、鴻池銀(長野)、興銀(渡辺節)、三井銀小樽支店(曾禰中條)。と掲げられている。

写真の横浜正金銀神戸支店も、6本の円柱が並ぶ堂々のオーダーを構えた「上品」で「切れ味」のある建物である。桜井の最後の作品であるという。

(左図)銀行の奥にマンサード(角型屋根)が乗っているが、たぶんこれは博物館にしたときに付け加えられたものではないか。


「横浜正金銀神戸支店」を過ぎて京町筋を北上したのは、神戸朝日ビルを訪れるためである。ここには渡辺節が設計した「旧神戸証券取引所」が復元されているという。

道路を通して高層ビルが見えた。高層ビル(26階建て)の低層部は、おなじみとなったアメリカンルネッサンス風の建物ではないか。コーナーの石積み、最上階の下にある深い軒。基底部がラスティカ積みであれば、これは渡辺節の世界である。

たぶんこのビルが神戸朝日ビルであろう。早くも見つけることができた。神戸の市街地(旧居留地)は本当に狭いのである。



正面に回ると平面が半円形のオーダーがある。イオニア式の角柱が6本。 ただしオーダーの比例は相当に崩れているとシロートには思われた。

柱が支える エンタブラチュア(梁)の下にエンタブラチュアと同じほどの厚さの太い梁(灰色)があるのはどういうことか。柱は梁の下にあって、梁を支えるのが役目であるが、柱が上部で繋がっている。これは新しく建てた高層ビルが必要とした構造物であろう。

装飾はエンタブラチュアの中央にあるメダリオンだけである。往時、渡辺が作ったものは、こういう建物ではなかったのではないか。

神戸朝日ビルは「旧神戸証券取引所」ではあったが証券取引所の寿命は短かったようである。私の学生時代にはすでになく、建物は映画館になっていたと思う。(今も2階は映画館である)



神戸朝日ビルのすぐ南にも高層ビルがある。これは旧神戸銀行本店で、今は三井住友銀行の神戸営業本部となっている。

「華麗なる一族」を見始めた当初は、銀行は神戸銀行、鉄鋼メーカーは山陽特殊鋼がモデルだと思っていた。しかしその後ドラマを見ていくうちに、モデルを探すことは間違いであることがわかった。

山崎豊子さんが執筆された時点では、まさか1998年から始まる拓銀・長銀・日債銀の破綻に続いて、富士銀+興銀+第一勧銀の統合や三菱銀+UFJ(三和銀+東海銀)の統合、住友銀+さくら銀(三井銀+神戸銀+太陽銀)の合併、りそな銀(大和銀+協和銀+埼玉銀)のような銀行の大再編成が起きるとは想像もできなかったであろう。 「事実は小説より奇なり」である。



旧神戸銀行前の道を1ブロックほど西に進むと、大丸南1号館が見える。元は「ナショナルシティ銀行神戸支店」である。ヴォーリズが設計し、昭和4年に竣工している。

前回、ヴォーリズの「日本基督教団大阪教会」を見たが、これはロマネスクであった。

この建物は銀行であるからクラシックである。左側が正面であろう。4本のイオニア式円柱が4本並んでいる。右側はピラスターが7本。

大阪の大丸心斎橋店もヴォーリズの設計である。銀行として建てた建物が結果として大丸の所有となったのだが、大丸とヴォーリズは縁があるようだ。



右側(北)を見通すと、北隣に、震災後に建て替えられた白い大きな大丸神戸店がある。

その低層部はアーチが連続するアーケードになっている。高さも南1号館と同じに揃えてある。



左側を進む。振り返ると南1号館と並んで2棟のクラシックスタイルの建物があるが、これも高さが揃えてある。大丸2号館・3号館であるらしい。

ははあ、大丸はこの一角をクラッシックスタイルで統一しているのだ。百貨店が街づくりをしているのである。大丸はえらいなあ。



その中心である大丸神戸店はどのような建物であろうか、と思って予定にはなかったが1ブロックを半周して正面にやってきた。

設計は日建設計であるらしい。大丸は「そごう」と違って保守的な建物にしている。シロート目には、窓回りがゴシック調のように見える。


軒下には四角な石を貼り付けた連続模様があり、壁面上部に装飾が施されていて、このあたりは古典的である。

ゴシックのイメージが湧いたのは窓が縦長く見えたからであるが、窓は特に幅が狭いわけではない。窓の外部に縦長の珊状のものを貼ってある。柵は窓の高さよりも長く、しかも窓枠より内側に貼ってあるので、窓は狭く、縦長に見えるのだ。

このおかげで建物が垂直に伸びる動きを表現し、繊細で華麗で格調ある建物にしている。(とシロートは思った)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 訪問順路@... 訪問順路A...      執筆:坂本 正治