神戸の近代建築A

    No.55.....2007年3月17日(土曜)


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神戸の近代建築@(旧居留地)の続き。 1日で、神戸中央区を歩き、神戸に残る近代建築物の実地研修をしたが、テクテクは2回に分けて書いた。ここでは「神戸の近代建築A(主として山手)」についてまとめた。教科書は前回も書いたが以下の3冊である。
  1. 日本の近代建築(上)・藤森照信・岩波新書
  2. 日本の近代建築(下)・藤森照信・岩波新書
  3. 建築MAP大阪・神戸・ギャラリー間・TOTO出版




大丸神戸店が西面する道路は鯉川筋である。(大阪と同じく神戸でも、東西に通じる道路は「通り」、南北に通じる道は「筋」を呼称する) 鯉川筋の西側は「旧居留地」ではなくなる。

日米あるいは日英通商条約が締結され神戸には大勢の欧米人がやってくるのだが、それ以上に多かったのは中国の華僑であったかと思われる。

中国人は居留地の権利を得ることはできなかったようである。やむなく居留地のすぐ近くに住居や店を構えることになる。その名残りが「南京町」である。

南京町という行政上の地名はない。元町商店街の1本南の通りを「南京町」と呼ぶ。ご覧のとおりに町並みは古い時代の中国である。

(次図)「南京町」は活気がある。門の屋根の棟に置かれた置物もにぎやかである。





南京町の次の南の通りに、見ようによってはそっけない、飾り気のないビルがある。

「神戸住友ビル」である。元は「住友銀神戸支店」であったようであるが、今は貸しビルになっていて、ブティックが出店している。若い女性が出入りしていた。

設計は長谷部竹腰建築事務所。竣工は昭和9年。鉄筋コンクリート造の3階建てである。


長谷部は「歴史主義の第3世代」である。第2世代から歴史主義の建築家は3つのコースをたどることになるのであるが、第3世代の@アメリカンボザールの代表は渡辺節、Aヨーロッパ派の代表は岡田信一郎、B新感覚派(後期表現派)の代表は長谷部鋭吉・佐藤功一・安井武雄の3人である。

長谷部は住友ビルヂングを、佐藤は早稲田大学大隈記念講堂を、安井は大阪ガスビルを設計している。好みでは佐藤の「早稲田大学大隈記念講堂」が一番ではないかと思うが、要するに歴史様式にモダンデザインを取り込んだ一派である。

壁面は扁平である。が、3つのアーチがあって、ここで歴史主義の様式を表現している。真ん中のアーチが出入り口で、左右のアーチは窓である。各アーチの下部にはアーチを支える円柱があり、ここには濃密な装飾が施されている。

ほかに様式を感じるのは隅部3階のアーチ窓と軒下の装飾である。ロマネスクのイメージである(とシロートは感じた)。




近くに旧三和銀行の前身のひとつである「旧山口銀行」の神戸支店があって、河合浩蔵の設計によるという。

探してみたが、やはりというか、見つからなかった。(山口銀→三和銀→三菱UFJ銀の変遷によって、三和系の古い建物は残らない)

写真はシティループという観光客用のバスである。600円かそこらの1日乗車券を購入すれば、どのバスにでも乗り換えできるらしい。乗ったままなら歩き回らなくても神戸の観光スポットを見ることができるようである。




鯉川筋に戻ってきた。鯉川筋の西は旧居留地ではないが、ここに神戸郵船ビルがある。

「旧日本郵船神戸支店」。設計は曾禰中條建築事務所で、大正7年の竣工。

クラシック様式である。曾禰・中條の手になるビルであるから破綻がなく、落ち着いて、おとなしく、とがったところがない。

が、正面のファサードはやや仰々しいのではなかろうか。

左右に2本ずつのピラスターがあり、中央に飛び出して双柱の角柱がオーダーを構成する。その上には大きな半円窓があるが、この見込みは深い。2階の窓にもイオニア式の円柱がある。私としてはちょっと辟易するのである。




海岸通りに出て側面を見ると、こちらはリズミカルな印象である。ピラスターはなんと10本。

中央の出入り口は小さいペディメントが載っている。正面よりも側面の方が美しい。

往時は銅板葺きの屋根とドームが載っていたそうであるが、これらがなくともバランスはとれている。

渡辺の貴婦人のような商船三井ビルと曾禰中條の冷たく静かな神戸郵船ビルと、どちらがよいかは好みの問題であるが、渡辺のほうが上であろう。





(次図)海岸通りには歴史主義の建築が立ち並ぶ。手前から郵船ビル→海岸ビル→商船三井ビル→川崎汽船ビル→チャータードビル。手前にはさらに「海岸ビルヂング」がある。このように6つの古典的なビルが林立しているのは神戸を除いてはないのではないか。





「海岸ビルヂング」。元は兼松の本社ビルであったが、のちに「日濠会館」となった。今は貸しビルのようだ。設計は河合浩蔵。明治44年の竣工。

ドイツバロックである。同じ河合の「海岸ビル」よりも様式がはっきりしていて、こちらのほうがバランスがよいとシロート。それにしても装飾が過剰なことである。

私の学生時代(昭和41年〜45年)には、「卒業論文」という制度があった。ゼミの教授に卒論を提出し合格しなければ、いくらほかの科目の成績がよくても卒業できなかった(今でも「卒論」の制度があるのだろうか)。

私は神戸という特殊な土地柄から設けられた「海商法」という珍しいゼミに属していた(法学部だった)。「商法」ではなく「海商法」である。


例えば海運会社が荷主から米国へ貨物の輸送を頼まれたとする。順調に航海をしていたところ、太平洋の真ん中で難破している船を発見する。航海は一時中断して3日間にわたり漂流者を捜索し、救助した。人間としては当たり前のことであるが、契約日に荷物が到着しないために、当然に貨物の遅延による損害が発生する。

この損害は誰がかぶるのか。荷主なのか、輸入元なのか、船会社なのか、あるいは保険会社なのか。そんな法律的な判断を教わるゼミであった。

「卒論」提出の期限が迫ったとき、ほとんどゼミに出席していなかった私は法律とは無関係の海上運賃の推移を卒論のテーマとした。そこで資料を求めて神戸の船会社を廻った。商船三井と郵船のビルも訪ねた。当時はまだ貸しビルではなく、郵船も商船三井も川崎汽船も現存するビルで営業していたはずであるが、記憶に残っていない。( もったいない体験である)




「海岸ビルヂング」の1本北の道。裏通りだが、ここにもクラシックな建物があって、ソバ屋が営業していた。昼時なのでソバでも食べるかと思ったがシャッターが半分降りている。

この近くに長野宇平治が、これぞ銀行の建物にふさわしいと打ち出した、6本の列柱が並ぶ「旧三井銀行神戸支店」があったはずである。もしかして残っているかと、淡い期待を持ってうろついてみたが見つからなかった。震災で壊滅したらしい。

藤森さんは「旧三井銀行神戸支店」についてこう述べられている。

『小さな建物だけど、前に立つと・・・内側から盛り上がってくるような迫真力にうたれる。・・・・一歩近づけば柱のエンタシスの曲線は曲面となってふくらみ、二歩近づけばふくらみながらも先の方はすぼまり、すぼまった先にイオニア式の柱頭飾りの二つの渦巻きが載る。硬い柱でありながら何か生き物のような躍動感を持つ柱』

見たかったなあ。



大阪のラスティカ積みの「旧鴻池銀行」、銀行のクラシックスタイルの原点となった「旧三井銀行神戸支店」は、もう永久に見ることはできないのだ。

長野の作品には不運な運命がついてまわる。

うろうろしたのは栄町通りの3丁目4丁目あたりである。向こうに煉瓦造の建物が見える。

「旧第一銀行神戸支店」である。設計は辰野金吾。明治41年の竣工という。東京駅が大正3年の竣工であるから、それに先立つ何年も前から赤煉瓦スタイルを辰野は採用していたわけである。




角部にある出入り口にはペディメントが載り、2階にはアーチ窓が並ぶ。その窓の外側をまたアーチのくぼみで囲い、アーチを支える「ピア」は2本の円柱にしている。これは初めて目にするものである。

出入り口上のアーチ窓の両脇には貼り柱を配し、全体はクラシック様式を多く取り入れているようだが、壁は赤煉瓦である。クイーンアン様式と呼ぶものであろう(シロート判断)。

あれ。屋根がない。骨組みだけがある。





「旧第一銀行神戸支店」は外壁だけのものである。映画のオープンセットのごときものであるが、出入り口は地下鉄・海岸線の「みなと元町駅」に通じている。

それにしても神戸市はよくぞ外壁を残していたものである。古い建物の外壁を新しい建物の外壁にして保存するというやりかたはすばらしい。考えたものである。

今日これまでに見たものでも、「神戸税関」がそうであったし、「海岸ビル」がそうだった。(のちに訪ねた「神戸地方裁判所」もそうであった)古きよきものを残そうという神戸市の熱意は並たいていのものではない。神戸はえらい。




「みなと元町駅」から西に歩いていると、スタイルは古いがきれいなビルがあった。銅のプレートが外壁に貼ってあったので読むと、大正10年の竣工で、NHKの神戸出張所が昭和24年まで入っていたとある。

現在の所有者は、震災にも倒壊しなかったこのビルを竣工当時の外観にもどし、神戸には少ない「大正モダニズム」のビルとして保存する・・・というようなことが書かれていた。

古いビルの改修工事は大変であろう。億単位の費用がかかったことだろう。それを民間会社が単独でなすのである。これにもまた感心する。



ほどなくして「旧三菱銀行神戸支店」が見えた。相生町1丁目の交差点にある。設計は曾禰達蔵。明治33年の竣工である。

1階はラスティカ積み。2階3階にかけてオーダーを配する。竣工当時は正面のオーダー上には大きなペディメントがあったが、戦災で失われたという。

ルネッサンス様式である。





日本人建築家が自立したのは辰野が明治29年に日銀本店を作ってからである。ここより明治末までが歴史主義の第1世代が大活躍する。藤森さんの「明治の歴史主義系統図」から抜き出してみると、
  1. 明治27年、三菱1号館。コンドル(英派)復元中。
  2. 明治27年、東京府庁。妻木頼黄(独派)現存しない。
  3. 明治27年、奈良帝室博物館。片山東熊(仏派)
  4. 明治28年、京都帝室博物館。片山東熊(仏派)
  5. 明治29年、日銀本店。辰野金吾(英派)
  6. 明治32年、東京商業会議所。妻木頼黄(独派)現存しない。
  7. 明治33年、三菱銀行神戸支店。曾禰達蔵(英派)
  8. 明治34年、日銀大阪支店。辰野金吾(英派)
  9. 明治35年、兵庫県庁。山口半六(仏派)
  10. 明治36年、神戸地方裁判所。河合浩蔵(独派)
  11. 明治37年、横浜正金銀行。妻木頼黄(独派)
  12. 明治38年、三菱4号館〜7号館。曾禰達蔵(英派)現存しない。
  13. 明治42年、赤坂離宮。片山東熊(仏派)
  14. 明治44年、日濠会館。河合浩蔵(独派)
  15. 明治45年、愛国生命。河合浩蔵(独派)現存しない。
  16. 大正 3年、東京駅。辰野金吾(英派)

明治30年代というのは第1世代が学んだ様式をしっかりと生かしたよい建物が多い。「旧三菱銀行神戸支店」もこの時期の建物なので、ルネッサンス様式をきちんと守っている。例えば2階3階の大オーダーと窓脇につけられた小オーダーの比例関係。大オーダーの柱頭はコリント式で、小オーダーの柱頭はイオニア式で統一している。曾禰の建築家としてのピークの作品ではないか。

上のリストを眺めていると、ほとんどは公的施設である。民間の建物として残っているのは「旧三菱銀行神戸支店」と「日濠会館」だけではないか。しかもどちらも神戸にある。ここでも神戸のえらさがわかる。「旧三菱銀行神戸支店」は子供服のファミリアが所有し、今もホールとして使われているそうである。

「旧三菱銀行神戸支店」を少し北へ進むと、多聞通りである。交差点角に道標のようなものが立っていた。「兵庫県里程元標」と彫ってある。横に説明の石碑があって読むと、兵庫県の里程元標は、相生橋西詰にあったが、昭和6年の国鉄高架線の工事で相生橋ともども撤去された、とある。

ははあ、このあたたりが兵庫県の中心地であったのか。東京の日本橋、京都の三条大橋のようなものである。(大阪は高麗橋がそうらしい)

相生「橋」というのだから川に架かっていたに違いない。近くに川があったかと地図で調べたら宇治川があるではないか。宇治川は兵庫・会下山を訪ねる途中で見た。山手幹線の北側には河川があったが、南側からは消えていた。南側は地下河川となって、元の河川敷きは宇治川商店街になっていた。

たぶん地下河川になる前にこの近くに架かっていたのが相生橋であろうと思ったが、違っていた。 相生橋は鉄道線路を跨ぐ陸橋だった。写真の左手にJRの高架がある。明治7年に大阪から神戸まで線路が敷設されたが当時は当然高架ではなかった。多聞通りは鉄道線路で分断される。そこで線路を跨ぐ木製の橋をかけた。それが相生橋であると、神戸市のHPにある。

初めは人が渡れるだけであったが、明治22年には鉄橋になり、明治43年に開通した市電もこの橋を渡ったともある。市電が登れるほどだから相当に大規模な橋であったようである(車は踏み切りを渡った)。新しくできた相生橋を兵庫県の里程の基点としたのであるから、神戸はかなりの「新しモン好き」である。


相生橋が架かっていたであろうJR高架下をくぐって西へ歩くと、すぐに湊川神社である。神社の東側の塀にそって北上する。


神戸地方裁判所。設計は河合浩蔵。明治36年に竣工。

今は新しいビルが建ち、その低層部の外壁として保存されている。

基底部はラスティカ積みである。壁面は煉瓦。1階には水平に石が4本嵌め込まれている。窓は四角で周りを石で囲む。

2階の窓は庇の上に半円の飾り(弓型ペディメント?)があり、窓の連続が小気味よい調子を作っている。

中央と両端部にオーダーがあり、ここではアーチ窓やペディメントを乗せた窓がある。ルネッサンス様式である。

間口は長い。80mほどあるという。屋根はどういうふうだったのか? 




藤森さんの分類では「ドイツルネッサンスとバロックの中間」であるそうだから、屋根は角型のマンサードであったのではないか。

次の写真は旧兵庫県庁だが、北西角の屋根をより鋭くしたような屋根であったかと推測する。(そうでないと、ルネッサンス様式はよいとしても、バロック様式の要素が見当たらないから、とシロート。)

ここで河合浩蔵を見直す。「海岸ビル」や「日濠会館」(これがドイツバロックかと思うが)のような過剰な装飾はなく好もしい。






裁判所近くの地下鉄「大倉山」から1駅だけ地下鉄に乗って「県庁前」で降りた。「旧兵庫県庁」である兵庫県公館がある。

ここは半年前に訪れているのだが、そのときは近代建築の知識は皆無であった。様式も知らなかった。知識がないと、建物を見ても網膜に写されるだけで記憶に残らない。通りすがりの通行人を見たようなものである。

大きいな、古いな、立派だなという程度の感想しかもてなかった。今日は細部にも目を配りたい。

まず基底部はラスティカ積みである。1階はアーチ窓が連なっており、2階は弓形ぺディメントが載る窓が規則正しく連続する。ルネッサンス様式である。



正面ファサードは下からアーチ門、2階に3連のアーチ窓。窓はコリント式の角柱(片蓋柱)4本でなるオーダーで囲まれている。アーチ窓の上にも小オーダーがあり、角窓を囲っている。

軒上には大きなペディメントが載り、この後方には優美な丸みをもつマンサード(屋根)。ここからバロックともいえるが、バロックに特有なメダリオンなどの装飾は少ない。ペディメントの中に丸いメダリオンがあるくらいである。


玄関に近づくと、内部に照明がついている。土曜日は内部を公開します。と書いてあるではないか。ラッキー。さらにラッキーなことに無料である。

受付はボランティアの方である。正面エレベータで3階まで上がり、2階→1階へと下ってください。ということであった。

この「旧兵庫県庁」は山口半六が設計し、明治35年に竣工している。昭和41年まで県庁舎として使われたが、昭和60年に外観の修復および内部の全面改装が行われた。

元は煉瓦造2階建てであったが、今は3階建て(外部からはわからないが)だそうである。受付の方が「3階まで上がって」といわれたのはそういうことである。


3階でエレベーターを降りると目の前に3連のアーチ窓がある。これは外から見たアーチ門の上のオーダーの中にあったアーチ窓に違いない。アーチ窓の上部には四角い3つの小窓があるのも外観と同じ配置である。

窓際に寄ると玄関前の植え込みが見える。外からみたとき、窓はかなり大きく見えたが、案外に小さいことがわかった。デザインの力である。


受付では各階の部屋の配置図を渡されていた。自由に入室し、ご覧下さいということである。旧県庁の平面は「ロ」字型である。グルグル回っているとどちらが西でどちらが東かわからなくなる。

写真はたぶん西側の廊下である。左の窓は入ってきたときに眺めた2階の弓形ペディメントつきの窓であろう。

内部は全面改修されているから、山口が設計したものとはまるで違うのであるが、窓の配置や大きさは同じである。外からみた窓の連続と、内からみた窓の連続の印象はまるで違う。むろん外から見たほうがよい。


「ご自由に入室」とはいわれるものの、会議室・特別室・応接室などの各部屋には絵が掛かり、工芸品が飾られている。絵画でいえば100号もあるかと思われる伊藤清永があり、20号ほどの鴨居玲があり、西村功、中西勝あり、金山平三まである。兵庫県に関係ある画家たちのようであった。

兵庫といえば当然に小磯良平も出てくる。南ロビー(エレベータ前)に4×5mもあるかという大きなタペストリ−が掛けられでおり、知事室にはその原画が飾られていた。

だから要所要所にはボランティアの方が立っておられる。質問すると待ってましたとばかりに説明をしてくださる。貴賓室では「この絨毯をみてください。のじ菊を織り込んでいます。天井を見てください。この部屋は皇族が休憩されるので、部屋の意匠は木目を出して和風にしています。」


平面は「ロ」字である。「ロ」の中は内庭になっていたはずだが、今は内庭は3階まで持ち上げられて、空中庭園になっている(パンフレットでは屋上庭園とある)。芝が植えられ、建物近くにはパンジーなどの小花が植えてある。中央には噴水がある。

芝生の上を幼児が兄弟を追いかけてチョコチョコ走っている。山口はさぞ驚くことだろうが、怒りはすまい。

山口半六は県庁の竣工まで生きていなかった。疾病し、明治33年に42才で亡くなるのであるが、それから100年以上、山口の建物は使われ、愛されてきたのである。


建物は外観では2階にあたる。よって内側から屋根がよく見える。

正面から見た優美な形のマンサードの裏側が見える。屋根窓がついている。瓦はウロコ状である。こういう造りになっていたのか。間近でみることができたのは空中庭園のおかげである。

2階は展示室が並んでいる。兵庫県の紹介をしてあった。ざっと見回った。隅に山口が設計したとおりの「旧県庁舎」の模型(といっても2m四方はあるが)があったので、細部を確認することができた。

熱心に見ていたからかボランティアの方が話しかけてこられた。「内部が戦災で焼けていなかったら重文間違いなしなのに、実に惜しかった。」というと喜ばれる。

2階の北側に出口があったので、1階まで降りることなく、旧兵庫県庁を出た。

歴史主義の第1世代のフランス派を代表するのは、片山東熊と山口半六の二人である。藤森さんは第1世代のセンスについて、『一番うまいのは妻木頼黄(よりなか)と山口半六、中間が片山東熊で、辰野金吾は上手とはいえない』と評価されている。





北玄関から出て振り返る。藤森さんは、山口はあまりオーダーを使わなかったとも指摘されている。なるほど、北側から見るとオーダーがあるのは中央と両翼の2階部分だけである(片山東熊の京都帝室博物館(国立京都博物館)の写真を見ると、壁という壁はオーダーで埋め尽くされている)。

山口がオーダーをあまり使わなかったことについて、藤森さんは以下のように述べられている。

『山口は、そうしたフランス建築の本流(オーダーの多用)からは斜め下に距離をズラしていた。その結果、オーダーが生む壁面の張りや力動感には欠けたが、代わりに、見る人の緊張をほぐし、視線をやさしく受けとめるような温かみを持つことができた。片山はむろん辰野にも妻木にも無く、第一世代の中ではわずかに曾禰達蔵が共通する非明治的な質といえよう。』

専門家のいうことは違う。この建物は温かいのである。それはオーダーの少なさが原因であるといわれる藤森さんもえらい。



旧兵庫県庁から200mほど北上すると「相楽園」がある。元は小寺家の庭園であったが戦前に神戸市に寄贈されて公園になっている。有料(300円)。

庭園にはほとんど興味はないのだが、3つの重文があるのでやってきた。

入園料を払っていたら、おばさんが後ろに並んだ。次いで園内に立つ案内図を見上げていたら、おばさんが話しかけてきた。案内図にある池は「華麗なる一族」で木村拓哉が鯉(将軍という)を呼ぶ場面がでてくるが、それがこの池ではないかと思ってやってきたのだそうである。

テレビの公園は芝生のある洋式の庭だったから、この案内図の日本庭園とは違うのではないかというと、私も「華麗なる一族」のファンであると察して、あれこれとしゃべりだした。「明日は最終回だから、忘れずに見ましょう」で話を打ち切ったが、行動的である。 まあ、私もドラマをきっかけにして近代建築を見て歩こうと思ったのだから、このおばさんが木村拓哉の池を見たいと思ったのとあまり変わらないが。



ここには河合浩蔵の設計した「旧小寺家厩舎」が残っている。これが第1の重文である。

煉瓦造の2階建て。2階は木造である。明治40年ころに建てられたようだ。様式はドイツの木造ゴシックであるという。

「L」字型の平面につごう5つの開口部があるが、これは馬車・自動車のガレージであり、馬房である。2階は厩務員のための和室だそうである。

どちらに馬がいたのかだが、これは右の「越し屋根」がついているほうである。越し屋根の下に換気のための隙間がある。また左の屋根には「屋根窓」がついているのは、この下が居室(寝室が多い)であることを示している。


木造ゴシックというのは初めてである。2階を見上げると木の柱や梁や斜め材が露出している。これをハーフティンバーと呼ぶようである。

西洋建築の主流は石や煉瓦を積んで壁を作り、これで屋根を支える構造であるが、一部の地域では柱で支える軸組構造をとるものがある。この場合は屋根を支えるのは柱であって壁ではない。壁は柱と柱の空間を埋めるものにしかすぎない。

「西洋建築の歴史」の佐藤達生さんは、クラシック建築はオーダーが代表するように列柱が目立つが、屋根を支えているのはその背後にある壁である。ゴシックは壁の薄さを競い、膜のような壁が特徴となっているが屋根を支えるのは柱である、といわれている。ほんとだ。

藤森さんは、日本にあるハーフティンバーのほとんどはイギリスのチューダー洋式であるといわれる。チューダーでは斜め材はあまり使わないそうである。河合浩蔵が得意としたドイツバロックの本格的な建物は重文にはならず、この厩舎が重文になっているのは、ドイツの木造ゴシックという珍しさのためであろうか。(改造されていないことも大きな理由だと思うが)



厩舎の隣に「旧ハッサム邸」がある。ハンセルの設計によるもので、明治35年に建てられたという。第2の重文である。

江戸末期から外国人がやってきて、住居を建て始めるのであるが、それを建てる大工は日本人である。よって設計図をみても和風に解釈したり、和風の建築技術を使い、国内にある材料で建築するしかない。

明治10年代までは、おかげで本国では決して建たない和洋折衷の西洋風建物が多く建てられた。それは伊賀上野城下町 で見たように各地の小学校の校舎として残っている。(「旧小田小学校」は明治14年に建てられている)



今日見た「旧居留地15番館」は米国領事館であったから、この建物の建設に当たっては、米国人建築家を呼び、材料も米国からとり寄せて建築したかと推測するが、外国の建築物を見たこともない日本人の大工・左官では外国人が居住する住居を提供することは無理であった。

そういうときにハンセルという英国人が明治21年に日本にやってくる。彼は遅れてやってきた建築家である。幕末から明治初期(コンドル来日以前)にやってきた建築家たちは、まあまともな建築家ではなかったようである。大型の建築物を手がけるほどに馬脚を現し、荒稼ぎができなくなって日本を離れざるを得なくなる。

ハンセルはいかがわしい建築家とは違って、英国王立建築士会の正会員である。同時期に正会員であった在日外国建築家はコンドルだけであった。



ハンセルはどうして本国イギリスにはないヴェランダコロニアルスタイルの建物を作ったのであろうか。特徴であるヴェランダは日差しのきついインドや香港といった南国でこそ有用であるが、日本では無用のものである。

ハンセルは明治21年に来日し、大正9年に離日している。32年間も日本(神戸)にいれば、ヴェランダは決して日本の風土には合わないことはわかったはずである。まして神戸では冬の「六甲おろし」はきつい。ヴェランダよりもサンルームのほうが必要であったのではないか。

だが神戸の外国人はハンセル風の洋館を好んで建てたのである。



山手幹線を東に向かっている。帰り道である。今日見るべきものはだいたい見た。


前回も来たトアロードまで戻ってきた。北に聖ミカエル国際学校がある。交差点の右側の建物はNHK。

坂道を登れば北野町で、そこには異人館が多く残っている。回教寺院のモスクとハンセルが設計したシュエケ邸をみたが、興味は湧かなかった。歩き疲れていたのかも知れない。


NHKの隣に韓国領事館がある。もとは「兵庫県信用組合連合会事務所」で、置塩章(おじお)が設計し、昭和4年に竣工している。

ゴシック様式の「国立生糸検査所」より3年早くに手がけているのだが、このビルの様式ははっきりしていない。

民間の建物であるし、小さい建物であるから、ゴシックとかクラシックとかの様式を取り入れる余地はなかったのか。施主の意向がそうであったのか、あまり装飾はない。


それでも玄関の方立て(入り口回り)は少し飾ってある。庇の下の持ち出し(庇を支える)と2階中央の窓および3階の窓と窓の間にある付け柱のようなものの形状は同じであり、全体が統一されている。


見上げると軒蛇腹の模様も付け柱(?)と同じ意匠である。

スクラッチタイルと同色の石を使ってあるので、河合の神戸裁判所や辰野の第一銀行神戸支店のように、赤煉瓦に白色石のはっきりしたコントラストではなく、渡辺節の商船三井ビルのようなしっとりとした調和が感じられる。


韓国領事館から生田神社はすぐである。神社を抜けて帰ろうとしたのだが、驚いたことに神社はごった返していた。拝殿の鈴緒の前には5〜6人の若い女性の参拝者が行列をつくり、鈴を鳴らす順番を待っているのである。

藤原紀香と陣内智則が生田神社で結婚式を挙げたことが報道されたためであるらしい。「華麗なる・・・」に触発されて出かけてきた相楽園のおばちゃんといい、この生田神社といい、女性のミーハーぶりと行動力には恐れ入った。


JR三ノ宮駅(北口)に着いた。駅前の小公園にはヘンテコなオブジェがある。

今日の万歩計は26300歩。最近になくよく歩いた。

渡辺節の商船三井ビルと山口半六の旧兵庫県庁には強い感銘を受けた。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 訪問順路@... 訪問順路A...      執筆:坂本 正治