京都の近代建築@

    No.56.....2007年4月7日(土曜)


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今日は京都の近代建築を訪ねる。京都はなかなか一筋縄ではいかない。大阪・神戸の近代建築は1日ずつかければおおよそは回れたが、京都は少なくとも3〜4度は訪れねば回り切れないであろう。

というのは近代建築のみならず、より古い寺社・御所・城・町屋がそこらじゅうに残っているために、ついでに訪れたいところがいくらでもあるからである。できるだけ近代建築以外は回らぬようにしたが、今日は予定したところまで行けなかった。

大筋としては、@八条通りの京都駅から烏丸(からすま)通りを北上して、三条通りに行き、A三条通りを東を向いて歩き、B御池通りに出て、C地下鉄で「蹴上(けあげ)」に行き、D三条通りから先斗町(ぽんとちょう)を下って四条まで歩く、というコースとなった。

京都はまったく知らないわけではない。若いころ2年ほど京都に住んでいたことがある。棲家は伏見にあった。「伏見桃山」と「京阪三条」を毎日往復していた。

三条駅がまだ地上駅だったころのことである。三条駅前には蒲生君平が御所に向かい、両手をついて遥拝している銅像があったが、今はどうなったのか。

そういう時代のことだから、地下鉄ができ、京阪電車も鴨川に沿って地下鉄になっている今では、まあ浦島太郎の心境である。



「建築MPAP・京都」が今日のガイドとなる。名張を6時半ころの近鉄電車(大阪線)に乗って、大和八木で京都線に乗り換える。ちょうど京都行き特急があったので乗ったら8時前に着いた。

JR京都駅は1997年に竣工したが、見るのは初めてである。異様な建物である。駅施設のほか、ホテル・デパート・飲食街・劇場・駐車場を呑み込む巨大ビルである。建築MAPによると延床面積はなんと23.5万平米(約7万坪)もある。


駅を出て振り返って駅ビルの中心部を撮ったが、写ったのは全長の半分に満たない。写真の左にホテル、右にデパートがあるが写っていない。

なにしろ高さ60m・長さ460mのビルである。例えば辰野金吾の東京駅が335mであることを思えば、京都駅ビルの巨大さがわかる。

巨大ビルは巨大な屏風でもある。駅の南側には幸いにして有名寺院はないし、遠望できる山もないから、建設反対の声はさほどではなかったかもしれないが、それでもこの巨大異物が建つ前には反対運動があっただろうことは想像できる。

駅前に聳える京都タワー。高さ131m。設計は山田守。1964年に竣工。

山田守はモダンデザインの先頭グループの一人である。東京の武道館は彼の作品である。山田は作品からすると若い世代かと思ってしまうが、明治27年の生まれである。

例えば商船三井ビル・ダイビルの渡辺節が明治17年生まれ、大阪ガスビルの安井武雄も明治17年生まれだから10才年下である。村野藤吾(明治24年生)とほぼ同期、丹下健三(大正2年生)より20才年長である。

渡辺や安井は歴史主義の第3世代(最後の歴史主義)である。山田らによってモダンデザインが始まり、遅れて村野がモダンデザインに変わってこれを広く世間に認知させ、丹下の広島平和記念資料館(昭和30年)・国立代々木競技場(昭和39年)・東京都庁(平成3年)と経て、現代建築になる。

京都タワーも着工前には、京都の景観を台無しにすると大反対があったようである。

東寺の五重塔は高さ54.8mで我が国で最大の仏塔である。これを軽々と上回る131mのツルリとした白い塔ができるのである。(建築MAPによると、当時は東寺の五重塔より高い建築物は建てないという暗黙のルールがあったという)。山田は京都タワーができて2年後に亡くなる。

京都タワーのすぐ左に8階建の「関西電力京都支店」がある。設計は武田五一。竣工は昭和12年。

武田は歴史主義の第2世代である(横河民輔・長野宇平治・伊東忠太・中條精一郎・野口孫市・桜井小太郎ら)。武田や伊東は、日本の伝統様式を近代建築に取り入れよう(あるいは伝統様式を近代化しよう)という方向を向いていた。伊東は法隆寺に範をとり、武田は茶室に伝統様式を見出したという。

明治33年に武田はヨーロッパに留学し、ここでアールヌーボーの洗礼を受ける。「日本の近代建築(下)」で藤森さんは、『武田はアールヌーヴォーの中に、茶室と同じ軽み、平明、変化の妙といった質を見出した』と書かれている。

関西電力ビルは全体に平板である。昭和12年の竣工であるので、すでにモダンデザインになっている。角のカーブ、窓回りのつくり、正面の黒御影石は安井武雄の大阪ガスビル(昭和8年)によく似ている。関西電力の意向が「大阪ガスビルのような」というものであったのかも知れない。


京都タワーの北側、烏丸通りに面して、近鉄百貨店があったはずである。

建築MAPの地図には「近鉄」とあるだけで、設計者の名は掲げられていない。その説明もない。

ところが巻末に「建築ウォッチングの基礎知識」という10章があって、その「大正・黎明期モダンデザインの実践」という章に、『京都におけるこの時期(昭和初期)のインターナショナルスタイルとしては、関西電力京都支店や近鉄百貨店京都店が代表例となろう』とある。写

真も掲げてあって「(昭和11年)、設計者は渡辺節」とあるではないか。

(上図) もとは「京都丸物」というデパートだったが近鉄百貨店になり、その後近鉄も百貨店の営業をやめたと聞いていた。

今でもあるのだろうか。少し不安な心持ちで烏丸(からすま)に出たら、あった。残っている。看板は「PLATZ」とあるからデパート廃業後はテナントビルになっていたようだ。

窓が長く、垂直方向を強調したゴシックの調子である。1階に厚い庇があり、正面は4本の柱を立てて強調し、6階部分の3か所にバルコニー風の出っ張りがある。最上階は焦げ茶色で建物全体を引き締める。食堂があったのであろうか。

正面に近づいてみると、ビルの周りは工事用の鉄柵で囲まれている。解体はしないのだろうが、改装されるようである。

4本の柱には渡辺らしく、レリーフがあり、柱の角は面取りがされて装飾がつけられている。


出入り口を仰ぐと柱の上部に小さな飾りが貼ってある。

渡辺は、大阪に綿業会館とダイビル、神戸に商船三井ビルを、京都には近鉄百貨店を残していた。渡辺の無言の三都物語である。


東本願寺を左に見て、烏丸通りを北行し、

東本願寺の角を曲がって西に向かう。この辺りに宗務所があるのか、蔵屋敷ふうの建物がならんでいる。ここは花屋町通り。


東本願寺を半周して出てきた道は「正面通り」という。まっすぐ行けば西本願寺の御影堂門に突き当たるからである。

右は植柳小学校。むこうに伊東忠太の「伝道院」があるはずであるが、いやな予感がする。建物は工事用のシートで囲まれているのではないか。


シートの下が開いている。覗けば少しは建物を見ることができるか。

藤森さんによれば、伊東は法隆寺の中門の列柱を見て、ギリシアのオーダーやエンタシスに繋がるのではないかと考え、明治26年に「法隆寺建築論」を発表する。ついにはこれを実証しようと、明治35年から中国→ビルマ→インド→トルコ→ギリシア→エジプト→エルサレムへと3年をかけて遺跡の探訪をするのである。

中国からインドへの途上で、当時の西本願寺の法主である大谷光瑞が派遣した大谷探検隊と出会い、これを機縁にして帰国後は、「真宗信徒生命保険会社」(明治45年)や築地本願寺(昭和9年)の設計を任せられる。

「真宗信徒生命保険会社」は今は「伝道院」と名を変えている。


シートの下から見上げると、どうやら建物の背面であるらしい。赤煉瓦の上に黄色いタイル貼りのおそらくは6角形かと思われる塔がある。クローバー形のアーチ窓が開けてある。これは「多弁アーチ」というのではないか。

その下の赤煉瓦にあるアーチは「馬蹄アーチ」で、イスラム風である。イスラムでもアルハンブラ宮殿やインスタンブールのハギアソフィアやトプカプ宮殿とも少し違う(30数年前の記憶だから不確かだが)。

藤森さんによると『インド風を基調にヴィクトリア朝風の赤煉瓦様式を折衷し、さらに千鳥破風や軒組、蛙股(かえるまた)などの日本の形も組み込まれ、日本、インド、ヨーロッパが三位一体化する意欲作』であるという。

ここからは千鳥破風や軒組、蛙股は見えない。正面側にあるのかも知れない。

建物正面前に北川仏具製作所の看板があって、店先に主人らしき人が出ていたので、「いつから工事をしていて、いつ終了するのか」を尋ねると、「あれは囲ってあるだけで、工事はしていない」という意外な返事であった。

建築MAPの写真では、この角には2階建赤煉瓦があり、その上にタージマハールのようなドームが載っているのである。残念だ。主人は親切であった。店に入って、在りし日の伝道院の写真2枚と京都新聞の切り抜きを見せてくれた。子供のころはドームまで登れたそうである。

建物の傷みが激しいので、当座はこれを保護するためにシートでカバーをしているが、復旧工事の予定はないらしい。シートを掛ける費用が8000万円かかったという。

『長生きしとったら、そのうち坊さんも修繕する気になって、見ることができるようになるかも知れんな』。川端通りに行けばよい。今日は桜が満開である。とも付け加えられた。気のよい人であった。


正面通りを西へ少し歩くと堀川通りである。向うの工事用シートで覆われているのは西本願寺にある何かの建物を修復しているのだろう。

2012年は親鸞没後750年に当たるので、これを機会に御影堂が修復されている。東本願寺も、昨年夏に訪れた高田派の専修寺もそうである。西本願寺の御影堂は屋根の修復が終わり、シートは取り払われていていた。今は内装の修復をしているようであった。

西本願寺の南の築地塀に沿って西に向かうと唐門(国宝)がある。

そこから少し南に龍谷大学本館がある。今は文学部だけがあるらしい。

この建物は明治12年に竣工した木骨石貼り2階建の、いわゆる「擬洋風」建築である。大工の棟梁が洋風建築を見よう見真似で建てたわけだ。

藤森さんによると、『擬洋風は明治とともにはじまり、10年前後にピークを迎え、20年以後には消えてゆく・・・わずか20年の生命であったが、形式は3系統に分かれ、まず幕末から明治初期にかけて「木骨石造系擬洋風」が先行し、ついで、「漆喰系擬洋風」が現れてピークを飾り、その後、「下見板系擬洋風」に取ってかわられる。』のだそうである。

脇に立つ説明板にも「関西における洋風建築の先駆をなす斬新な建物」で重文である、とある。


この敷地には4つの重文がある。ひとつは正面に本館、その北と南にある北学舎と南学舎、および写真の旧守衛所である。

旧守衛所は、煉瓦造(あるいは木骨煉瓦貼りか)で、出入り口はアーチ、アーチの頂部には要石があり、建物の角には隅石が積んであり、窓もアーチ窓である。これだけを見るとどこが「擬洋風」なのかと思われるほどだが、屋根が和風である。


(次図)本館はなかなかのものである。正面にポーティコ(車寄せ)がせり出し、アーチ門の上にはオーダーがあり、その上にはペディメント(三角破風)が載っている。

白い壁にはアーチ窓が並び、窓と窓のあいだにはピラスター(付け柱)がある。角には隅石が積んである。







クラシックの部分が随所に使われているが、日本的な部分も残っている。例えば付け柱上部の柱頭はイオニア式の渦でもなくコリント式のアカンサス(あざみ)でもない。雲型である。

軒を支える持ち送りは、寺の軒下にある木鼻(柱を貫いて出た梁の先)に施された彫刻のように見える。


図の中央は西本願寺の阿弥陀堂の軒先にある象(獏?)の彫刻。左に雲型の肘木(ひじき)が見えるが、上図の持ち送りはここれらに似ている。

本館を挟むようにして北と南に長い学舎がある。これも重文である。

1階2階にはアーチ窓が整然と並び、2階にはベランダ風の通路、それを1階部のアーチで支えて、窓とアーチの間は人が通れるかと思われる空間ができている。人が通れるならアーケードである。

シロートにはアーチの連続はルネサンス風であるように思える。たいしたものである。24歳のコンドル青年が来日したのは明治10年である。工部大学校で本格的な西洋建築を学んだ日本人が初めて卒業したのは明治12年のことである。

この間は誰もが西洋建築の教育を受けていないのである。それが見よう見真似で、これほどの擬洋風建築物を建てることができたのである。

堀川通りから烏丸通りまで引返し、五条烏丸で地下鉄に乗る。次の四条烏丸までのひと駅を乗るだけである。運賃は210円。

四条烏丸の地上に出たら、北西角に4階まで届く円柱を構えたビルがある。旧三和銀であるが、北隣にある三菱東京UFJ銀に店舗を統合されていて、今は無人の建物である。


北東角には三井住友銀がある。元は三井銀があったのではないか。建築MPAには「さくら銀」と表示してある。

ビルは新しい。コーナーにオーダーが付けられているが、これは旧三井銀のものを一部取り込んだのだろうか。


烏丸通りの西側を北に向かって、三条通りまで歩く。この道沿いには、北国銀行京都支店、住友銀行京都支店、第一勧業銀行京都支店があると建築MAPに記載されている。

ほどなくして北国銀らしい建物が見えた。

設計は辰野片岡建築事務所である。いつの竣工なのかは説明がない。

赤煉瓦と白い石を組み合わせた辰野式である。角部の上に塔があるのも辰野らしい。

北国銀は閉鎖されている。現在は塔の下の蛸薬師通り(たこやくし)を西に入った場所にある商業ビルにテナントとして入っているようである。

さらに北上すると、あれ、また辰野式である。(このビルは建て替えられたレプリカであるそうである。)

旧第一勧銀、いまはみずほ銀である。たぶん旧第一勧銀のその前は「第一銀」であったのではなかろうか。 というのは辰野の後援者は第一銀を創立した渋沢栄一と高橋是清だったからである。

高橋是清自伝を読んでいたら、高橋が放蕩の果てに、唐津に新設された英語学校の教師として赴任する。高橋は若干18才ながら、米国で本場の英語を学んでいたからペラペラにしゃべれるのである。ここで教えた生徒の名前を挙げてあったが、そこに曾禰達蔵、辰野金吾の名があった。

歴史主義の第1世代の4人は面白い。藤森さんによると、

イギリス派の辰野と曾禰は唐津藩士である。唐津藩は佐幕派であったから明治ではなかなか頭角を出せないはずだったが高橋是清の縁で東京に出て工部大学校に入り、イギリス派のNo.1とNo.2になるのである。

ドイツ派の妻木頼黄は貧乏旗本の出である。よってバックとなったのは勝海舟や旧幕府の開明派のグループであるという。

フランス派の片山東熊は長州の下級武士の出である。山県有朋の強い引き立てによって宮廷建築家として栄達の道を歩む。


烏丸通りに住友銀行京都支店があると建築MAPに記載されているのだが、見つからない。6本の石柱からなるオーダーを備えた石造の写真と、長谷部竹腰建築事務所の設計で昭和13年の竣工。と説明があるのである。

みずほ銀から南へ戻ったらそれらしきビルがある。しかし石造の上には10〜11階の窓が並んだ建物が乗っている。ホテルになっている。近づいてみると、中心に2本のイオニア式円柱、その左右に各3本のピラスターがある。

旧住友銀はこの場所を払って旧三井銀の四条烏丸に店舗を統合したらしい。

再びみずほ銀のある三条通りまで戻って、東を臨む。向こうの煉瓦造りは中京郵便局である。

三条通りを東に向かい、途中で北に曲がって御池通りに出る予定。

中京郵便局(なかぎょう)は明治35年の竣工で、設計者は吉井茂則。煉瓦造であるが、辰野式よりもよほどスマートである。

先の「みずほ銀(旧第一銀)」の建物は辰野にしてはちょっと控え目でおとなしいが、先日神戸で見た「旧第一銀行神戸支店」は派手すぎていた。

赤煉瓦に白い石のコントラストは悪くはないが、コントラストが効き過ぎると目障りになる。建物ばかりが自己主張していて、人に馴染まないのである。

中京郵便局は、「みずほ銀」よりもさらに落ち着いている。


1階の窓は庇があり、持ち送りで支えてある。2階の窓には弓形ペディメントを載せている。基壇は石積みで細かな柱状の意匠がある。角には隅石が互い違いに積まれ、赤煉瓦の壁面にはいっさいの装飾はない。

この窓の整然とした並びはルネッサンス様式といってよいかと思う。 吉井茂則の作品は初見だが、辰野のものよりよほどバランスが取れて、すっきりした建物になっている。とシロートは感じた。

中京郵便局は1978年(昭和53年)に建て替えられ、内部はすっかり新らしくなったが、外壁はこのように保存された。「ファサード保存」の嚆矢であるという。



中京郵便局から1軒東に京都文化博物館がある。もとは日銀京都支店で、明治39年の竣工。設計は辰野金吾。長野宇平治が手伝っている。

中京郵便局と同じく煉瓦造だが、様式の基調は異なる。中京郵便局のルネッサンス風とこの辰野式(クイーンアン風)とが対比できるのはこの地を除いてはないだろう。

1階部分は赤煉瓦に白い石の帯が7重8重に巻かれている。出入り口はせり出した石造のアーチ。アーチの下は煉瓦も使っていて赤白のまだら模様になっている。

2階の窓の庇には飾りが載り、この飾りと庇を支えるために石の持ち送りが付けられている。外壁には付け柱があり、柱頭に石の飾りが載る。飾り・持ち送り・柱頭が石であるので、赤煉瓦の中に白い石が目立ち、中京郵便局と比べるとやや小うるさい。

両翼の屋上にはモニュメンタルな青銅の塔が据えられ、まわりを欄干で囲う。辰野式らしく屋根面も賑やかである。



1本先の堺町通りに「萬年社京都支店」(大正14年。大倉三郎)があると建築MAPに記載されていたが、すでに無く、マンションが建っていた。

建築MAPに掲げてある写真を見ると、ここに建っていたのはロマネスク風で装飾はほとんどなく、すっきりした建物である。 ちょっと落胆。



次の通りは柳馬場通り(やなぎのばんば)である。この北西角に「日本生命京都三条ビル」がある。大正3年の竣工。設計は辰野片岡建築事務所。

辰野式の煉瓦造ではなく石貼りである。これは片岡安の当時の作風であると建築MAPにある。

石貼りではあるが、コーナーの上に三角錐の青銅屋根があり、そのてっぺんに小塔が立つ。軒の上には柱の上ごとに壷のような青銅の飾りが置かれ、屋根面は賑やかである。


側面を見ると、クラシックな部分は2階にある弓形ペディメントが載る窓とアーチ窓くらいで、オーダーらしきものは見当たらない。

大正3年ともなると辰野は相当に様式を崩し、部分をアレンジしているらしい。とシロート。

三条通りには近代建築が多く残っている。次の富小路(とみのこうじ)にも「SACRA」というビルが残っている。

元は不動貯金銀行であったが、今はリニューアルされて商業ビルになっている。



(次図)その斜め前、同じ三条通りに面して「京都ダマシンカンパニー」がある。建築MAPによると、竣工は明治23年である。元は時計店であったが、今は婦人衣料を売っている。


明治23年とは驚きである。当時はようやく歴史主義の第1世代が設計を始めた時期である。例えばコンドルによる鹿鳴館(明治16年)、三菱1号館(明治27年)は現存していない。辰野の工科大学(明治21年)、曾禰の三菱合資大阪支店(明治24年)も現存しない。

明治20年代の建物で、現存しているのは
  1. 明治27年。奈良帝室博物館(片山)
  2. 明治28年。京都帝室博物館(片山)
  3. 明治28年。司法省(エンデ・ベックマン)
  4. 明治29年。日銀本店(辰野)
くらいではなかろうか。すべて国家的な建物である。この建物の設計者は何を手本にして建てたのか。あるいは外国人の手によるものか。不思議な建物である。


次の麩屋町通りを過ぎ、次の御幸町通り(ごこうまち)の南東角に「毎日新聞社京都支局」がある。今は喫茶店やレストランがテナントとして入っている。 昭和3年の竣工。設計は武田五一。

窓を横切って付けられた庇は、水平方向を強調している。全体は平板だが3階に付けられたバルコニー、4階の左右にある星型の飾り、アーチの連続模様の軒蛇腹などのアクセントがつけられている。アールデコ風である。

連想するのは大倉三郎の「生駒時計店」である。これも窓が水平線で分割されていた。似た感じがするのは、大倉は京大建築学科の卒業生(大正12年卒)であるからである。当時の教授の一人が武田であった。


武田は京都建築界の大御所である。建築MAPの囲み記事によると、武田は明治36年(31才)に京都高等工芸学校の教授に迎えられ、大正9年に新設の京大建築学科の教授になる。

昭和7年に京大を退職するまでの約30年間に亘って多くの建築家を育てた。門下生は百数十人に及ぶという。




次の寺町通りを北に200mほど歩けば、御池通り(おいけ)に出る。




(次図)御池通りの北に京都市役所本館がある。竣工は昭和2年。武田五一の設計による。 正面玄関前にはテントが張られており、大勢が集まっている。バザーかお祭りをしているようだ。




正面の上に塔が立つ。京都市章の上にある飾りは、下から順に4本の柱を持つオーダー、3連アーチ、4本の付け柱をデザインしたものかと思われるが、これが武田が得意とした「意匠」であろうか。

この構成は随所に使われている。正面の最上階の意匠も同じであり、両翼の最上階もこれである。

正面玄関を撮りたかったが、正面前の広場はバザーをしている上、大きなテントがいくつか張られていて、正面の全容は見えない。


壁面は垂直方向が強調され、1〜3階は細い窓、最上階はアーチ窓で、ゴシック風のムードがある。

武田は、それまでの歴史主義を否定するアールヌーボーを欧州より持ち帰ったが、大正に入ると再び歴史主義に戻る。しかし旧の歴史主義に収まったわけではなかった。藤森さんは次のように書かれている。

『京都府記念図書館(M42)に見られるように、クラシック系の様式をベースにしながら歴史様式の「造形」「組合せ」「比例」の3要素を崩して自在に形を組み立て直し、奥行きを消した版画的な印象の壁面を生み出した。

こうしたグラフィカル(版画的)なデザインはアールヌーヴォーの原理の1つに違いないが、武田の場合、アールヌーヴォーに学んだというより、まず茶室の中に見出し、さらにアールヌーヴォーと出会って確認した彼自身の造形的資質にほかならない。』


三条通りを歩いているときからポツリポツリと雨が降っていたが気になるほどではない。

京都市庁前から地下鉄東西線に乗って「蹴上」(けあげ)へ向かう。蹴上には琵琶湖疎水、インクライン、浄水場、発電所があり、ここに片山東熊(とうくま)の建物が残っているらしい。



地下鉄「蹴上」を出たところ。道は三条通りである。三条通りは東西に伸びているのだが、蹴上から南に折れ曲がって、山科から大津に向かう。逆に江戸から上ってきた旅人は蹴上にきて「ああ京に着いた」と安堵する位置にある。

蹴上の下り坂方向は左京区で、桜が咲いているのは蹴上発電所のまわりの公園。公園の向う(北)に南禅寺がある。



蹴上は東山区に属するが、蹴上の上り坂方向は山科区であるというように、蹴上は東山区・左京区・山科区の3区が隣接した位置にある。

右手の塀の並びは「蹴上浄水場」。ここには明治45年に作られたヨーロッパの城砦か城館のような建物が残っているという。

建築MAPの写真を見ると、正面の左右に塔が立ち、上部は物見台のようになっている。王様が凱旋すると兵士が塔の上でラッパを吹いて帰還を知らせるが、その場面を思い出させる、絵本か童話にでてくるような建物なのである。楽しみである。

蹴上の坂道を上って、「九条山浄水場」に向かっている。



(次図)疎水に出た。向うのトンネルは琵琶湖と繋がっていて、琵琶湖からこちらに向いて水が流れて来ている。そのトンネルの右にある建物が片山東熊の「九条山浄水場ポンプ室」である。明治45年に竣工。





煉瓦造1階建ての小さな建物である。壁は煉瓦だが、基壇・隅石・軒下などの要所には石が積んである。窓はアーチ型。軒上に欄干がつき、屋根には屋根窓が付けられている。

この場合、正面は疎水側であるらしい。正面には双柱のオーダーがあって、琵琶湖からやってきた水を、威儀を正して迎えているかのようである。

建物の近くに水があると建物が一層引き立つ。フランス派を代表する片山らしい、上品で落ち着いた建物である。

琵琶湖疎水についての案内板があった。

『明治2年に東京に首都が移り、産業も人口も急速に衰退していく京都にあって、第3代京都府知事北垣国道は、・・・琵琶湖に着目し、疎水を開削することにより、琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防火などに利用して京都の産業振興を図ろうとした』。


この疎水工事を指揮したのは明治16年に工部大学を卒業したばかりの田辺朔郎だった。着工は明治18年のことである。

トンネルの長さは2436mである。湧水、落盤など工事は困難をきわめたが明治23年に通水する。

説明板の図によると第1トンネルの北にもう1本トンネルがある。たぶん向うに見えるトンネル出口がそれであろうと思う。

疎水の目的は当初は@船運、A水力利用、B灌漑であったが、工事途中でA水力(水車)は水力発電に切り替えられた。



@船運は、琵琶湖から物資を運び、これを宇治川へ最終的には淀川へ出そうとしたのだろうか。

琵琶湖から長いトンネルをくぐってこの「蹴上船溜り」までやってきた船は、向うに見える台車に乗せられ、ケーブルで牽引されながら坂道を下り、今は京都動物園がある「南禅寺船溜り」へ運ばれ、そここから鴨川疎水へ行ったようである。

坂道には幅が広いレールが4本敷いてある。複線である。往時はこの線路の上を船を載せた台車が上り下りしていた。この線路を「インクライン」と呼ぶ。

「蹴上船溜り」から「南禅寺船溜り」までは582m、高低差は36mある。琵琶湖から来た舟から旅客や貨物を乗せ替えることなく下の南禅寺船溜りへ降ろすには、パナマ運河などで採用されているように、運河(疎水)を何か所かに区切り水位の操作で舟を移動させるのが普通である。

蹴上の場合は高低差がありすぎた。また舟は小さいので、舟を台車に乗せて鉄道を使って降ろすという方法が採られたのであろう。むろん日本で初めての試みである。


インクラインの右の高い場所には蹴上発電所があり、ここからパイプを通して京都中に配水されている。

三条通りの向うに蹴上浄水場の建物が見える。楽しみにしていた童話の建物であったが、浄水場には部外者は入れなかった。

おそらくはあのゴシック調の建物の近くにあるのか、あるいはもう取り壊されて替わりにあの建物が作られたのか。遠望する建物は新しい。


発電所の裏に疎水が続いている。向かっているのは南禅寺である。

疎水は南禅寺の一部を横切って、途中でパイプに変わり、南禅寺境内の地下あるいは南禅寺寺域の北に出て疎水に戻り、最終的には動物園南にある元の南禅寺船溜り(琵琶湖疎水記念館がある)に行くようである。

ここで疎水を跨いで右側に渡り、坂を下ると南禅寺の南禅院である。


人は南禅院に下ったが、疎水は煉瓦でできた水路橋の上を流れていく。

すごいですな。イタリアではローマ帝国時代に建設された上水道施設が今でも使われているというが、それである。水路橋は「水路閣」と呼ばれている。

(次図)14個のアーチで水路を支えている。アーチはクラシック様式どおりである。すなわちアーチ(円弧)を支えるピアと呼ばれる柱があり、念のいったことには水路部分にアーチの連続模様が施されている。 明治23年の日本人はまことに丁寧な工事をしたことである。


京都はこの疎水に将来を託した。託された田辺朔郎青年は、わが子を育てるかのような愛情と情熱を、琵琶湖疎水に注いだだろうことがひしひしと伝わってくる。アーチを見上げているとちょっと胸がつまった。明治の人間はエライ。

水路閣を西へくぐると南禅寺の法堂がある。

山門(三門)もある。大きな二重門である。観光客が楼上に上がって、石川五右衛門よろしく「絶景かな」と見下ろしている。


今日は神社仏閣はできるだけ見ないことにしていたが、せっかくなのでという欲深さから国宝の方丈(本坊)を拝観して30分間を費やした。500円。

(この30分が、最後の予定地である京都国立博物館(旧京都帝室博物館)にたどり着けなかった原因となった。あとで悔やむ。)

南禅寺三門から金地院を通りすぎて300mほど歩くと、橋にでた。下にはインクラインがある。ここはインクラインの終点である。橋の反対側は昔の南禅寺船溜りである。

今では蹴上船溜りからインクラインを歩いて南禅寺船溜りまで下るのは、お花見のよきコースであるようだ。

蹴上から地下鉄東西線に乗って京阪三条で降りた。少し雨脚が強くなったようだ。


鴨川の向うに「先斗町歌舞練場」(かぶれんじょう)が見える。

遠目にもスクラッチタイル貼りであることがわかる。窓の上下の水平線や丸窓は、生駒時計店と同じ調子である。アールデコであろう。

三条大橋を渡って先斗町通りを南に下る。歌舞練場の正面である。

なにしろ先斗町通りは、武士がすれ違う際に互いの刀の鞘が当ったことから斬り合いが始まるほどの狭い道である。どうやっても正面の全容を撮ることはできない。

竣工は昭和2年。設計は木村得三郎。木村は大阪道頓堀の入り口近くにある松竹座も設計している。(今はファサードの一部が残されている)

雨が激しくなったので、雨宿りをかねて「牛スジうどん」とビール1本。1600円。ここで30分過ごしたが雨は止まない。


先斗町を抜けて四条通りに出た。前に「東華菜館」(とうかさいかん)がある。竣工は大正15年。ヴォーリズの設計である。

大阪のヴォーリズはロマネスク風の教会であった。神戸のヴォーリズはオーダーのあるクラシックであった。京都のそれはスパニッシュである。

出入り口上のテラコッタの装飾、3階の窓下にある飾り、4階にはピラスター(付け柱)。


4階の壁と軒下は精緻な模様が入り、屋上には塔が立つ。建築MAPによるとスペインバロック様式であるという。スペインバロックは私には初見である。

初見というのは、注意して見たのが初めてだという意味である。東華菜館は知っていたし、ここで食事を摂ったことがある。

物事を知らないということは無邪気であるが、無頓着でもある。せっかくの出会いをしているのに何の感興もいだかない。哀しいことである。


(次図)四条大橋から三条大橋を見る。雨は降り続いている。鴨川べりのお祭りは不調に終わるようだ。予定では七条まで戻り、片山東熊の京都国立博物館を見て帰るつもりだった(そのために片山の建物が残っている蹴上に行った)のだが、今日はヴォーリズをもって京都の近代建築訪問を終わる。




京阪電車で丹波橋に行き、近鉄に乗り換えたら、運よく名張までの直行便があった。八木駅で京都線と大阪線の乗り換えをする必要がない。

リザーブの水割り2本、缶チューハイ1本を買い込んで、あとはゆったりと帰るだけである。

万歩計は23500歩だった。辰野金吾には少し食傷した。琵琶湖疎水一帯(片山のポンプ場、疎水、インクライン、水路閣)が最も印象深かった。


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