京都の近代建築A

    No.57.....2007年4月14日(土曜)


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近所の方から花を頂戴した(左側)。生けた花瓶は焼酎の空きビンである。

最近は姿のよいビンを花瓶にしている。右側も焼酎のビンで、鶴首の形が気に入っていて一輪挿しに使っている。水仙は庭に咲いたもの。なんの手入れもしないのに毎年咲く花である。

続けて京都に行ってきた。古都京都ではあるが、先週の訪問で最も印象深かったのは琵琶湖疎水であった。明治期になされた土木や建築物はなかなか面白い。

今日は主として丸太町と今出川の間の区域を歩いた。
  1. 烏丸丸太町から二条川端へ
    (地図@ABCD)

  2. 川端通りを北上して丸太町へ
    (地図EF)

  3. 河原町丸太町から府立医科大学へ行き、京都御苑へ
    (地図GH)

  4. 烏丸に戻り京都府庁を見て
    (地図IJK)

  5. 堀川通りに出て北上し西陣へ
    (地図LM)

  6. 今出川を西に歩いて同志社大へ
    (地図NOP)

  7. 同志社から百万遍、京大へ
    (地図QRS21)
だいたい20か所を訪れた。今日もガイドは「建築MAP・京都」である。

名張を7:27の特急に乗って8:50に京都に着く。



JR京都駅から地下鉄烏丸線に乗って、烏丸丸太町で下車。

地上に出るとすぐ隣に煉瓦塀がある。ここが「大丸ヴィラ」であるらしい。 門は閉ざされているので公開はしていないようだ。やむなく高い塀越しに内を覗く。

建築MAPによると、大丸ヴィラは大丸百貨店の何代目かの社長の自宅であったが、現在はゲストハウスになっているらしい。

昭和7年の竣工で、設計はヴォーリズ。大丸はヴォーリズをひいきにしている。チューダー様式のハーフティンバー(柱や梁があらわになっている)であるが、実のところは鉄筋コンクリート造である。

ヴォーリズはアメリカンボザールの代表者の一人だと思っていたが、どうも私はアメリカンボザールという様式を誤解していたようだ。アメリカンボザールは「アメリカン・ルネッサンス」とも呼ばれるように古典(クラシック)の様式であるらしい。よってゴシック系のものはアメリカンボザールと呼ばないのではないか。

改めて藤森さんの「日本の近代建築(下)」を読むと、@ボザール系以外のアメリカ派のスタイルとしては、A教会・ミッション関係のゴシック系、B住宅におけるスパニッシュであるといわれている。(大阪教会はボザールではなかったのだ)

この大丸ヴィラはイギリスのチューダー様式である。ゴシック系である。チューダーは柱の間隔が狭く、斜め材を多用しない。と藤森さんはいわれている。なるほどその通りである。見る限りでは斜め材は見えない。


ヴォーリズの建物としては、@心斎橋の大丸百貨店と神戸の大丸南1号館(これがアメリカンボザール)、A大阪教会(教会ゴシック)、B東華菜館(スパニッシュ)、そしてC大丸ヴィラ(チューダー)を見たことになる。

丸太町から烏丸通りを南下する。

京都新聞社の南を東に折れると夷川通り(えびすがわ)である。

建具屋だの、

豆菓子屋(写真の「豆政」は老舗であるらしい)だのが並んでいる。

京都は観光都市でもあるが、工業都市でもある。京都の織物・染物・陶器・漆器・工芸品・和菓子は日本の最高水準を維持している。江戸期、各藩は江戸・大阪・京都に藩邸を持った。江戸は参勤交代のため、大阪は米を換金するためであるが、京都は流行を知り、京都ブランドを買い求め、これを国元へ送るためであったという。

大藩は藩邸を持ったが、小藩は藩邸を持たず町屋を借りて、2〜3人が出張していたということを司馬さんが何かの本で書かれていた。

柳馬場で曲がって少し下がると教会の塔がある。「京都ハリストス正教会」である。明治36年の竣工。設計は松室重光。

建築MAPによるとロシア・ビザンチン様式であるという。 シロートはどこに特徴がある様式なのか知らない。ビザンチン様式はキューポラと呼ばれる丸屋根が特徴だということだけを知っているが、この建物には丸屋根(球状)はない。塔の先端あるいは奥の礼拝堂の上に建つ8角形のネギ坊主状の屋根がロシア・ビザンチン様式というのか?

建物横の案内板によると、平面は、玄関・啓蒙所・聖所・至聖所が1列にならび、最も広い聖所を中心にする「十」字形になっているとある。

三層塔の1階が玄関で、次に低い平屋が啓蒙所、奥の大きな2階建てが聖所であろう。均整のとれたよい建物である。


聖所の側面。出入り口が付けられている。おそらくは聖所の反対側にも出入り口があって、上から見ると十字形になっているのだろう。

ハリストスとはロシア語でキリストのことである。ギリシャ正教会を日本ではハリストス正教会とよぶのだそうである。

司馬さんは「街道をゆく・15」の「北海道の諸道」の中で函館ハリストス教会および東京のニコライ堂について書かれているが、歴史の繋がりというか因縁の不思議さを感じさせられる章である。

それは、1811年にロシア軍艦ディアナ号がエトロフ島にやってきて、艦長のゴローニンが上陸したとき、幕府によって囚われるところから始まる。

沖合いのディアナ号を指揮していたのはリコルドである。リコルドはいったんカムチャツカに戻り、日本人漂流民を連れて戻ってきて、これと交換にゴローニンの引渡しを幕府に要求するが受け入れられない。

そこにやってきたのが高田屋嘉兵衛の乗る観世丸である。嘉兵衛は拿捕される。リコルドは、嘉兵衛は一介の船乗りではなくゴローニンと引き換えるに値する人物であると判断した。 嘉兵衛はカムチャツカに連れていかれるが、リコルドと嘉兵衛は互いを尊敬しあい、嘉兵衛はゴローニン問題の調停役をかってでる。このことは司馬さんの「菜の花の沖」に詳しく書かれてある。

結局ゴローニンは釈放され、嘉兵衛も日本に戻るのだが、ゴローニンは帰国後「日本幽囚記」を執筆する。


それから40数年ののち、日露通商条約が締結され、ロシアは1859年に函館に領事館を置いた。 領事館には司祭がいた。2代目の司祭がニコライである。

ニコライは「日本幽囚記」を読み、嘉兵衛の聡明さ・勇気・誠実さに感動し、この人物が生きた日本という国に骨を埋めようと、志望してやってきた。1861年のことである。

領事館つき聖堂は明治5年に函館ハリストス正教会になる。これが日本初のハリストス正教会の聖堂である(その後大正5年に大きく建て替えられた)。

ニコライは函館で日本語を学び、日本についての知識を得てから帰国し、財政的基盤を本国で作った上で再来日する。布教するために聖堂を建てた。場所は神田駿河台、設計はコンドル。明治17年に起工し、24年に竣工している。



高田屋嘉兵衛→リコルド→ゴローニン→ニコライ→コンドルと因縁は続く。さらにはコンドルに学んだ辰野金吾、辰野に学んだ松室重光が、この京都ハリストス正教会を設計しているという繋がりもある。

司馬さんは、若いころ京都ハリストス正教会に出入りされていて、「街道をゆく・15」では当時の老神父の思い出を語っておられる。

おそらくはこのときからニコライに興味をもたれたようで、「街道をゆく」の随所にニコライの名がでてくる。15巻の「北海道の諸道」のうちの「高田屋嘉兵衛」「函館ハリストス正教会」「政治の海」、26巻の「石巻の明るさ」、33巻の「野バラの教会」「山下りん」、36巻の「ニコライ堂の坂」などである。



聖堂の背面。ネギ坊主の塔が立つ聖所の隣に、平面が半円形に近い至聖所がある。おそらく、ここに祭壇があって教会では最重要な場所であろう。

司馬さんは、36巻の「ニコライ堂の坂」で、

『日本におけるこの宗旨はただ一人の人から始まった。』

と書かれている。まことにそうである。ニコライがいなければギリシャ正教会を日本人は知らなかっただろうし、ニコライ堂もこの建物も存在しなかっただろう。

一冊の本に感動した青年神父は、異国の地でここまでのことをなしたのである。




ハリストス正教会から南東方向に少し進むと「日本キリスト教会・京都御幸町教会」がある。ヴォーリズ建築事務所の設計による。

同じヴォーリズの大阪教会よりだいぶと小さいゴシック様式の建物である。

ゴシックに特有の「控え壁」がよくわかる。


二条通りを東に進んで二条大橋にやってきた。手前は中京区、橋を渡れば左京区である。川は鴨川、向うの土手は川端通り。

橋を渡ったのは、琵琶湖疎水を確認したかったからである。 先週、蹴上から南禅寺の水路閣を通る水路を見たが、この行く先はよくわからなかった。

疎水は2本あるようである。地図を見ると、1本は地下パイプによって南禅寺の船溜りに通じている。

もう1本は南禅寺から地下パイプを通って南禅寺の北の熊野若王子神社のあたりに出て、ここから水路となり、銀閣寺近くまで北に向かう(この水路に沿う道を「哲学の道」という)。


南禅寺の船溜りに出た水は、岡崎公園を半周して鴨川あるいは鴨川に平行して作られた疎水に出てくるようだ。

ただし鴨川沿いの疎水を目にできる箇所はわずかである。二条では見ることができるが、御池からは水路の上に蓋がされて道路になっているかと思われる。御池から三条→四条→五条→七条まではダメである。七条を下った塩小路通りから再び姿を見せるが、ここからはしだいに鴨川から離れていき、宇治川に繋がっている。

鴨川に沿っている疎水が見られるのはこのあたりだけである。

先週、伝道院前の北川仏具製作所の主人に、「川端通りに行けば桜が満開だ」と勧められたが、1週遅れで実現することになった。桜の花はだいぶ散り、すでに青葉が出てきている。1週間の違いは大きい。


鴨川右岸に変わった建物がある。(写真では左手に見えるが、右岸というのは川下に向かって右側の岸のことである。手前が下流。)

「旧京都中央電話局上分局」で、大正12年の竣工。設計は吉田鉄郎。今はレストランになっている。

歴史様式を使わぬ建築物を作るモダンデザインのはしりは「表現派」となって現れた。藤森さんはだいたい以下のような順であるといわれている。

@本野精吾(西陣織物館・大正3)と後藤慶二(豊多摩監獄・大正4)が先頭ランナー。

これを引き継いだのが、A吉田鉄郎(この建物・大正12)、岩元禄(西陣電話局・大正11)。

ついで大正9年に結成されたB「分離派」の堀口捨己、山田守(東京中央電話局・昭和2)、石本喜久治(朝日新聞社・昭和2)、森田慶一(楽友会館・大正14)。だが表現派は、昭和5年には終息する。



建物が残っているのは、本野精吾(西陣織物館・大正3)、岩元禄(西陣電話局・大正11)、森田慶一(楽友会館・大正14)とこの吉田鉄郎の(京都中央電話局上分局・大正12)である。全部が京都にある。

表現派は歴史主義から離れて、新しい感覚の建物を建てようとしたらしいことはわかるが、これぞ表現派であるという典型はどのようなものであろうか。

シロートはまだ捉え切れていないのだが、さいわい京都には表現派の作品がいくつも残っている。数多く見れば、なんとかその「新感覚」がわかるのではないかと期待している。



丸太町通りを河原町まで歩き、河原町通りを北上すると「京都府立医科大学旧図書館」がある。ビルに挟まれた茶色が目当ての建物である。



竣工は昭和4年。設計は京都府営繕課。

ゴシックである。正面ファサードの中央部には細いアーチ窓が3つ並び、その下にはバルコニーがつく。その両脇には長く伸びる尖頭のアーチ窓。その下に小さいバルコニーがある。

1階の3つの出入り口も尖頭アーチである。正面の壁はスクラッチタイルが貼ってあるが、左右の棟は石貼りのようである。ここにも1階から3階まで繋がる高い尖頭のアーチ窓。



府立医大から河原町通りを横断すると、清和院御門がある。門をくぐると京都御苑。

京都御苑は、江戸期に御所および公家の屋敷が立ち並んでいた一画である。だいたい大阪城全体と同じ広さがある。案内板にある江戸期の御所周辺図を見ると、
  1. は内裏が過半を占め、近衛・一条の2つの摂関家と公家屋敷。

  2. は有栖川宮・嘉陽宮・閑院宮の宮家と九条(摂関家)と、屋敷の敷地の大きさからして家格の高い公家(おそらくは清華家と呼ばれる久我・三条・西園寺・徳大寺・今出川など)の屋敷があったようである。

  3. は大宮御所と上皇の住まいである仙洞御所。鷹司(摂関家)と公家屋敷。

  4. は桂宮家があり、その他は公家屋敷。
となっている。 5摂関家のうちの二条家はどこにあったのか?有栖川宮の南がかなり広い敷地になっているが、ここだろうか。ともかくこの一画に200軒の公家屋敷が立ち並んでいたのだが、明治2年の東京遷都とともに、公家らも東京にいってしまい、この地は空き家ばかりとなって荒廃したという。

私は(A)の清和院御門から(B)の蛤御門まで御苑を横断しようとしている。

突き当たりの築地塀は御所。右手は公園。Cの公家屋敷が立ち並んでいた場所である。

左手の築地塀は大宮御所。


御所の東南角。右手は北。左手は御所の正面に至る。

正面の建礼門。この奥に紫宸殿・清涼殿があるはず。

御所周辺が荒廃していくのを目の当たりにして、京都人はかつての平城京がたどった道を思い浮かべたに違いない。平城京は平安京に遷都されてわずか50年後に、完全な田圃になり果てたのである。

建築MAPに「京都建築1200年の地層」という8章があって、このうちの7章目「近代への変革」で、以下のことが書いてある。

『江戸時代後期においてすでに、京都は工業都市としての優越性を失ってきて、観光都市の性格が強まっていた。この上に天皇を失えばどんなことになるのか。今や門前町でしかない奈良に、自分たちの将来を見たのである。』

建礼門の前の公園。

「第二の奈良になるな」というスローガンがあったそうである。京都はどうしたか。

『選ばれた方策は勧業事業の推進、すなわち工業都市の復権であった。京都府は新政府に対して遷都の補償を執拗に求め、明治3年に産業基立金10万両の下賜と勧業基立金15万両の貸与をかちとる。』

蛤御門を内側から撮る。

勧業のための大事業が琵琶湖疎水の開削であったという。

蛤御門を出て、烏丸通りを200m足らず南下すると、「聖アグネス教会」がある。

明治31年の竣工。設計は米国人建築家のガーディナー。

ゴシック。煉瓦造で控え壁があるのは典型だが、3層の塔の窓が各階ごとに違っている。これは初見である。1階は縦長の窓、2階はバラ窓、3階がトレーサリー。

トレーサリーにステンドグラスがはまっていればさらに典型となる。この建物のトレーサリーの上部の丸形部にはステンドグラスがあるようだが、その下の並んだアーチ形部には無い。

日本の近代建築は、歴史主義の第1世代が、イギリス派・フランス派・ドイツ派に分類されるようにヨーロッパを手本とした。アメリカを手本とするようになったのは、第2世代になってからのことである。

横河民輔はアメリカ式オフィスビルの三井本館(明治35)を建て、野口孫市はアメリカンボザールを手本にして中之島図書館(明治37)を建てたのがアメリカの建築が日本に導入されたはしりである。

それ以前のアメリカ風建築は、アメリカ系ミッションにしかない。京都では同志社大学に残るいくつかの建物とこの聖アグネス教会くらいか。


隣りは平安女学院である。中学・高校・大学があるらしい。

ここにはハンセルが建てた「平安女学院明治館」がある。

建築MAPには、煉瓦造の「オランダ風の壁」の建物であるの説明がある。ハンセルの建物は神戸の相楽園にある旧ハッサム邸を見ているが、ベランダコロニアル風の邸宅であった(神戸にあるハンセルの建物はどれも邸宅)ので楽しみだ。


しかし明治館は修理中だった。警備員に声かけて入り口から写真を撮ったが、シートで覆われているので何もわからない。

聖アグネス教会と平安女学院は下立売通り(しもだちうり)に面している。下立売を200mほど西へ歩くと京都府庁がある。(木立の向う)

十字路で右手を見ると、おとなしくまとまった上品な建物が目についたので行ってみた。京都府警本部の本館であった。

出入り口には大きな庇が後から付けられているようだが、正面ファサードはなかなかのものである。

3列3段の縦長の窓、3階はアーチ形。窓の各列はアーチ形に囲ってある。

玄関前から見上げて撮る。窓回りの細かな模様がよい。軒下の意匠もよい。全体はタイルが貼られているが、窓と窓の間のタイルは大きめで模様が入っている。

建築MAPには京都府警の説明はなにもないが、おそらくは昭和初期のものとシロートは判断した。

写真を撮っていたら、玄関で受付をしていたと思われる婦警さんが出てきたので、この建物はいつころのもので、誰の設計によるのかを訪ねたが知らないという。

「外部の写真は撮ってもよいですが、内部の写真は撮れません」。これがいいたかったらしい。

隣りは「京都府庁旧館」である。明治37年竣工の煉瓦造2階建て。設計は松室重光。

松室は歴史主義の第2世代である。横河民輔・長野宇平治・武田五一・伊東忠太・中條精一郎・野口孫市・桜井小太郎らが第2世代だが、作風からはアメリカの横河、ヨーロッパの長野・中條・野口・桜井・松室、折衷ないし独自の武田・伊東と分けられるか。(シロート判断)

松室の建物は、大阪の武田道修町ビルとさきほどのハリストス正教会を見ている。ともに装飾が少なくすっきりした建物であった。特にハリストスは感心したが、それはロシアビザンチン様式が初見であったためかも知れない。

府庁は土曜日は閉められている。門扉越しに正面を撮る。


正面の玄関は木立がじゃまをして見えないが、2階にはバルコニーがあり、4本の柱からなるオーダー。その中に丸窓。左右に2本ずつの角柱(ピラスター)。オーダーの上にはペディメントが載り、マンサード屋根がある。

近くで見ることができないのはなんとしても残念である。門の横の無人の守衛所に「御用の方はお回りください」と別の守衛所の地図が貼ってあった。


別の守衛所は新館と旧館の間にあって、「中に入って、写真を撮ってもよいか」と尋ねると、あっさりと「いいですよ」

旧館の北側である。旧館は「ロ」の字形をしていると建築MAPに説明があったが、北側には写真のような棟が突出しており、「凸」字形になっている。

正面から見たフランス・バロック調とはやや違うような印象である。出入り口は全部アーチ形である。車寄せの柱やアーチ門の上に貼られているパネル状の石の飾りは正面にはなかったのではないか。


建築MAPによると議事堂であるらしい。 議事堂であるから、松室は正面と違う感じにしたのか。建築MAPに掲げてある設計者は「松室重光+久留正道+一井九平」とあるので、久留または一井の手によるものか。あるいは後に増築したのかも知れない。

旧議事堂を西に回って南に来た。正面に両翼があるが、写真は左側の翼。

壁は黄みを帯びた石であるらしい。土台や隅石、2階の窓を囲む付け柱、軒下の白い石と、黄色みを帯びた壁の色の組み合わせが上品である。辰野式の赤白のような派手さはない。

落ち着いている。シックといってよい。

1階の窓の上部の左右にパネル状の飾りがある。これは旧議事堂のアーチ門の上にあったものと同じである。となると旧議事堂も松室の手になったのか。だが部分を真似ることは他人にできるから、旧議事堂にこれを流用したのかも知れないし...。

こだわるのは、上図の車寄せの柱にある縦長のパネルとアーチ門の上にある横長のパネルのサイズと配置の位置が、松室のセンスではないのではないかと思っているからである。


いよいよ正面。車寄せの柱は外側が角柱で内側に2本の円柱がある。柱頭の飾りは単純であるからトスカナ式というものであろう。2階のオーダーを構成する柱の柱頭はコリント式であるが、アカンサス(あざみ)の彫りは浅く、形を単純化しているようだ。

山口半六の旧兵庫県庁(明治35年)と比べてみる。山口は歴史主義の第1世代であり、松室は第2世代である。この世代の違いなのか、センスの違いなのか。松室のほうが軽やかである。

山口の特徴はオーダーをあまり使わず、そのために建物の印象は裃をつけたような堅苦しさはない。松室もそうである。

山口の建物は決して鈍重ではないが、松室ほど軽くはない。これは山口が(辰野式で多用している)白い石の帯を壁面に巻いているために、やや重いあるいは威厳がある感じを与えるのだろう。


一方、山口は飾りをほとんどつけていない。

松室はパネルを要所に貼り、ペディメントの中にもバロックらしい飾りを施し、バルコニーに欄干をつけて、山口に比べると装飾が多い。しかしうるさくはない。

山口の旧兵庫県庁は「凛」としている。禁欲的であるといってもよいかと思う。松室の京都府庁旧館は「しゃれている」。京都人松室のセンスのよさが現れている。

京都府庁前の下長者町通りを西に200mほど歩き、油小路通りを250mほど北上したところ。半円柱が並ぶ建物は「旧西陣電話局」である。

竣工は大正10年。設計は逓信省技師の岩元禄(ろく)。

表現派の建物はなぜか電話局が多い。先に見た吉田鉄郎の「旧京都中央電話局上分室」、この「旧西陣電話局」、山田守の「東京中央電信局」(昭和2。現存しない)がそうである。

正面。平板な外壁にアーチ形のパネルを3本の柱でささえている。柱の上にはギリシャ彫刻風の裸婦が立つ。上部に出窓。その上に溝が彫ってある円柱が並ぶ。建物右上にはライオンの彫刻。

ここには歴史主義の様式はない。最上階の列柱がクラシックな要素をみせるが、様式にしたがったものではないようだ。

(次図)目を惹くのはなんといっても正面の彫刻とレリーフである。柱の上の裸婦はミロのビーナスのごとく両腕がない。頭が左肩につくほど顔をかしげている。腰にはビーナスと同じく布を巻く。

このモチーフをもとにしたと思われるレリーフがアーチ形パネルに展開されている。レリーフの女人は両腕を曲げて広げる。何を手にしているのか。足は片膝をついて半立ちである。それは薬師寺東塔のてっぺんの水煙に透かし彫りされた笛を吹く天女のポーズであるようにも見える。

これが表現派と呼ばれる建物であるのか。既存の様式を使うことのない建物を建てようとしたとき、岩元は彫刻とレリーフを要素にしたわけだ。今ではさほどではないが、大正10年当時では新感覚であったろうことは確かである。

岩元禄はこの建物が竣工した翌年に亡くなる。夭折の建築家である。洋画家でいえば青木繁、日本画家なら速水御舟にあたるか。

堀川通りを北上して、今出川を南に曲がると、和菓子屋の「鶴屋吉信」がある。その前を過ぎて200mほど歩くと、

(次図)「旧西陣織物館」がある。いまは京都市考古資料館になっている。

竣工は大正4年。設計は本野精吾。表現派の先頭を走った人物の処女作品で、藤森さんの「日本の近代建築(下)」にも写真が掲げられているほど有名な建物である。

ポーティコ(車寄せ)の円柱や上にある欄干は歴史様式を使っているようだが、壁面は平坦で、装飾はない。

建物からいっさいの装飾を取り除くと、単なる立方体と屋根の三角だけになるが、これでは貧相である。工事用のプレハブ倉庫と同じになる。どこでアクセントをつけるか。

この建物は白色系のタイル貼りだが、2階と3階の間に茶色い筋を水平に引き、3階の壁面は同じ茶色のタイルで四角に囲っている。平面を分割することによって単調さから逃れている。

軒下も茶色で、ここに壁面と同じ白色系のデンティル(櫛歯)状の飾りがあるのは、単調さを嫌ったものか。 屋根には屋根窓が載っているが、形は独自にデザインしたものである。

今出川通りを東に歩き、同志社大学に向かっている。

途中で、昼食(あなご蕎麦)をとったり、白峯神宮で蹴鞠をしたらしい衣装の神官を見たり、その横の油小路では本阿弥光悦の京屋敷跡の案内板があったり、散髪屋の前に、室町御所跡の石碑があったりしたのだが省略する。

同志社は立地としては日本の大学のうちで最もすばらしい場所にあるといってよい。今出川通りの南は京都御苑である。北は相国寺である。おそらくは相国寺の境内であったかと思われる。

同志社のキャンパス。長男はここを卒業した。同志社に入学したその年に母親が死んだ。うちにはまだ高2と中2の娘がいたから京都にいる長男には何ひとつ構ってやれなかった。

大学1・2年のときは京田辺市の学舎に通うために伏見区に住み、3・4年なるとここへ通うために左京区へ越した。私は何も手伝わなかった。今日初めて同志社大学を訪れる。

同志社には5つの重文建物と3つの国の登録有形文化財がある。この数も有数のものだろう。

まずは「彰栄館」。明治17年竣工。設計は米国人ダニエル・グリーン。重文である。

煉瓦造2階建て瓦葺のアメリカン・ゴシック。左に時計塔があるので、そちらが正面かと思う。


次は「礼拝堂」。明治19年の竣工。設計は隣の彰栄館と同じダニエル・グリーン。


その隣は「ハリス理化学館」。竣工は明治23年。設計はハンセルである。平安女学院で見損なったハンセルの建物を見られた。

ハンセルはイギリス人であるので、これはイギリス・ゴシック(詳しくはヴィクトリアン)である。大学でもらったパンフレットには「グリーンの設計による建物はアメリカン・ゴシック」とわざわざ注釈をつけてある。

アメリカン・ゴシックとイギリス・ゴシックの建物を見比べることができるのは、ここだけであろう。

例えば窓回りを見ると、アメリカンはシンプルであるが、イギリスは石で囲っている。壁面にも白い石の帯が入る。出入り口はグリーンのほうは尖頭アーチだが、ハンセルは円アーチである。ゴシックとくれば尖頭アーチだから、このアーチはハンセルの好みかも知れない。

明治27年に竣工した「クラーク記念館」(設計はドイツ人のゼール)は修復工事中でシートに覆われていて見れず。

写真は「有終館」。明治20年の竣工。設計はダニエル・グリーン。

グリーンは明治17年から明治20年にかけて3つの建物を作り、その3つが重文として残ったわけである。本国で作ったものは米国に重文の制度があるのかどうかは知らないが、たぶん重文の扱いとはなっていないであろう。日本の数少ない明治20年ころの建物であるからこそであろう。 となると建物を守ってきた同志社にかなりの手柄がある。

アメリカン・ゴシックは「彰栄館」「礼拝堂」に見るようにシンプルで飾り気がないのかと思っていたが、そうでもないようだ。

1階と2階の間の白い帯は「彰栄館」にもあったが、この建物には色の違う煉瓦で模様をつけてある。2階の窓の上部は白い石で隣の窓まで繋がり、窓の下のほうには黒い煉瓦で「ロ」の字形の模様をつくり、やはり隣の窓と繋がっている。

窓の下には「市松」に似た模様が黒い煉瓦でつけてある。これら煉瓦の模様は「彰栄館」「礼拝堂」にはない。

軒下は煉瓦を斜めに積んで角を表に出して2段の模様をつけている。これは「礼拝堂」にもあったからゴシックの軒下の様式なのかも知れない。

「アーモスト館」。竣工は昭和7年。設計はおなじみとなったヴォーリズ建築事務所である。国の登録文化財。

ヴォーリズの時代であるから、さすがに鉄筋コンクリート造で、外壁は煉瓦を貼ってある。パンフレットによると『左右対称の外観と煙突や屋根窓の並び、腰折れ屋根が特徴』とある。

ここからは同志社女子大である。写真右横に守衛所があって、撮影の許可を申し出たら、紐のついた許可証を差し出された。これを首に吊るしておけば校内に入れるのだそうだ。

正面の建物は「栄光館」。武田五一の設計で、昭和7年に竣工している。国の登録文化財になっている。

同志社にある建物はことごとくが煉瓦である。しかも基本はゴシックである。武田はこの制約をどうしたのか。

正面玄関の上に載る八角形の塔は、どうみてもゴシックではない。法隆寺や興福寺の八角堂のイメージである。



軒下にデンティルのような飾りがあるが、案外に垂木をイメージしたものかも知れない。窓は縦が丸く水平方向は角の格子をつけている。

施主の同志社はゴシック調にはこだわらなかったのか。

意匠の大家である武田らしいのは、バルコニーの模様と玄関の庇の模様であろうか。


隣にあるのが「ジェームズ館」。やはり武田五一の設計で、大正3年に竣工している。これも国の登録文化財になっている。

大正3年といえば、
  1. 辰野の東京駅(大正3)
  2. 辰野片岡の日本生命京都支店(大正3)
  3. 本野の旧西陣織物館(大正4)
  4. 河合浩蔵の旧三井物産神戸支店(大正7)
  5. 岡田信一郎の中央公会堂(大正7)
  6. 曾禰中條の旧日本郵船神戸支店(大正7)
  7. 渡辺節の旧商船三井神戸支店(大正11)
  8. ヴォーリズの大阪教会(大正11)
  9. 安井の大阪倶楽部(大正13)
と挙げてみると、本野精吾の旧西陣織物館を除いては、歴史主義の全盛期である。

この中で本野は様式からはずれ、武田・安井は独自の様式(のアレンジ)に傾いている。

「ジェームズ館」の白い帯はグリーンやハンセルに合わせたものかと思うが、外壁は平板でシンプルである。シンプルな屋根にひとつ付けられたアクセントは千鳥破風をイメージしたものか、日本的である。

気がつくと2:00近くになっている。予定ではまだ京大にある建物を見なければならない。同志社正門前からタクシーを拾った。

しかしタクシーが百万遍に来たとき、知恩寺(知恩院ではない)を見て、ここで降りた。というのは今、梅原猛の「法然の哀しみ」という本を読んでいて、法然に関係する寺々を知り始めていたからである。

欲深く無計画なことである。本堂に上がり、作務衣を着た坊さんにいくつかのことを教わったりして、ここで30分ほど過ごす。時間はいよいよ切迫してくる。

京大の理学部・農学部への道。


建築MAPに「湯川記念館」(森田慶一。昭和27年)があったのでやってきた。森田は山田守らと「分離派」を結成している。

ただしそれは大正9年のことである。この建物はそれより30年以上もあとの建築だから、表現派としての建物ではない。

建築MAPには、『柱型によって立面を規則正しくフレーミングし、その頂部を軒蛇腹によってまとめるという、非常に古典的な形式をもった建築である。』とある。ふーん。そういうものか。

もうひとつは大倉三郎の「旧農学部演習林事務室」である。竣工は昭和6年。木造平屋建て。

これもシロートにはハテナであった。

今出川通りをさらに東に向いている。左に「大文字」が見える。このまま進むと銀閣寺に着くのだが、

ここで今出川通りから左に伸びる志賀越通りに入る。


ザワザワと水の流れる音がする。道に直交して疎水が流れている。これは南禅寺の煉瓦の水路橋「水路閣」を通ってきた疎水(正しくは疎水分線という)であろう。

蹴上→南禅寺水路閣→パイプ(かトンネル)→若王子神社で水路になって疎水は北に伸び→銀閣寺近くで東に向き→この地の近くで再び北に向き、東に向きして→高野川を越え→松ヶ崎浄水場にいくらしい。

さらに賀茂川(鴨川の上流は賀茂川というらしい)を越え→堀川まで延びる疎水分線も地図に載っている。


疎水分線を跨いで200mほど坂道を登ると、「京大人文科学研究所」があった。昭和5年の竣工。設計は東畑謙三+武田五一とある。

これはいい建物だ。建築MAPによると、「スパニッシュ・ミッション」というアメリカ伝来の建築様式であるらしい。

『白い壁面とスペイン瓦による色彩感が爽快で、中庭(パティオ)を囲んで研究室を構成するその構成も魅力的である。』と説明してある。

この建物のよさはシロートにもわかる。


1階を見ると、円柱で支えられたアーチ。軒下にあるデンティル。バルコニーの欄干。

先週、スペインバロックであるという東華菜館を見たが、スペイン・ミッションとなるとだいぶ違う。装飾が少ないし、意匠も複雑ではないからであろう。無論この建物のほうが数段よい。


見上げていると、なんだかうっとりするような建物である。縦に伸びる窓。窓の幅と壁面の幅のバランスが絶妙である。

窓の格子の大きさもよい。1階と2階の間にある模様のタイルが少し華やかさをつけ、その上にアーチ窓。窓は軒下近くまで伸び、軒にはデンティル状の装飾(持ち送り?)。その上にはスペイン瓦の円弧が連なる。

屋根の上には3連のアーチ窓を持つ塔。アーチ窓の下に「×」字の装飾が貼られている。

武田はこの建物の設計を、当時大学院生だった東畑謙三に任せたそうである。もちろん指導をしたに違いないが、武田の教育者としてのすごさである。

京大本部にある「工学部建築学教室本館」。設計はむろん武田五一。大正11年の竣工である。

武田は大正9年に新設された建築学科の主任教授に迎えられ、自分が教鞭をとる学舎を自ら設計した。

さきほど大正年間の建物を掲げてみたが、様式主義全盛のなかで、モダンデザインに進んでいる。おそらくは武田は、今後の建築はこうであるということをこの建物に表現したかと思われる。


小豆色のタイル貼りで装飾はない。わずかに正面2階に赤色のタイルで意匠をデザインしている。白い軒にゴシック風の感じを残しているか。

予定では、表現派時代の森田慶一の「楽友会館」を訪ねるつもりであったが、ここから1km以上の距離がある。くたびれていたし時間もないので断念し、今日の近代建築訪問を終わる。


4:00に京阪出町柳駅に戻った。丹波橋まで行き近鉄に乗り換える。

今日は名張までの直行便はなかった。大和八木で大阪線に乗り換えるので、リザーブの水割りは2缶にとどめた。

松室重光のハリストス正教会と京都府庁旧館、武田五一と東畑謙三の京大人文科学研究所が、余韻の残る建物であった。

万歩計は30700歩。ここ4年間での記録となった。(最高は飛鳥に行ったときの39000歩)


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