京都の近代建築B

    No.58.....2007年4月28日(土曜)


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3回続けての京都行きとなった。 今日は主として東大路を北上した。
  1. 七条から大和大路通りを北上し五条へ
    @三十三間堂
    A京都国立博物館・方広寺
    B京都中央信用金庫五条支店

  2. 六波羅裏門通りを東に向き東大路へ
    C六波羅蜜寺

  3. 東大路を北上し
    Dパーラー・オーバル
    E弥栄会館

  4. 丸山公園へ
    F祇園閣
    G長楽館
    H知恩院

  5. 神宮道を北上し、岡崎公園へ
    I藤井有鄰館
    J京都市美術館
    K京都府立図書館
    L平安神宮
    M武徳殿

  6. 東大路を北上して近衛通りへ
    N楽友会館
    O京大東南アジア研究センター
三十三間堂・方広寺・知恩院は予定していなかったが、弾みで訪れた。


名張を6:27の電車に乗って、8:00に京阪七条に着いた。

天気予報では晴れのはずだったが、薄日が射している程度の天候である。西大寺近くで、日輪を背にして龍が下る、あるいは弥陀来迎図にある25菩薩が雲に乗って降りてくるような雲を見た。


いの一番に片山東熊の京都国立博物館(旧帝室博物館)に行ったが、開場は9:30であるという。

誰もいない。入場門は閉ざされている。

1時間半の時間をどうするか。次の予定地の五条からスタートして、最後にここへ戻ってくるか。

天候があまりはっきりしないので、雨になれば1回目のときのように博物館の訪問ができない可能性もある。片山東熊を見ておかねば、京都の近代建築探訪が終われない。

この時刻でも観光バスが三十三間堂に入って行った。すでに三十三間堂は開いているらしい。ここで時間をつぶすことにした。

拝観料は500円。


東から西を向いて撮る。三十三間堂の正式な名称は蓮華王院本堂である。受付でもらったパンフレットによれば、後白河法皇が院政を敷いた法住寺殿の一画に、平清盛が1164年に建て寄進したという。現在の建物は1266年に再建されたものである。

三十三間堂と国立博物館には、18年前の1989年に家族で訪れている(アルバムを引っ張り出して確かめた)。

三十三間は内陣の長さである。内陣の(桁行33間・梁間3間)の回りに1間の外陣があるので、建物全体は(桁行35間・梁間5間)ということになる。


内陣の桁行33間の中央3間に十一面観音の坐像があり、左右の各15間に500体ずつの観音立像が並ぶ。全部で1001体という途方もない数の仏像群である。

本尊の観音坐像は高さ3.3mというから、(立てば)丈六ということだろう。1000体の観音立像はほぼ人間と同じ高さである。

観音立像の前には28部衆が並び、左端に風神、右端に雷神の躍動感あふれる像がある。外陣の長さは120mある。当時小2か小3の長男が、何に感心したのか知らぬが「すごいな。すごいな。」といいつつ、雷神から風神へ、風神から雷神へと長い外陣を往復したのを覚えている。


後白河法皇の天皇在位期間は短い。1155年から1158年までの3年間でしかないが、上皇(後に出家して法皇)となって1192年に亡くなるまで長期間の院政を敷いた。

この時期は波乱万丈の時代である。1156年には保元の乱があった。平清盛と源義朝が後白河方に味方し勝利する。

1159年には平治の乱が起きて源義朝が駆逐され、平家の時代が始まる。


写真は三十三間堂の隣にある法住寺。その隣に後白河法皇の御陵がある。

清盛が三十三間堂を造進した1164年は後白河と清盛が蜜月の関係にあったころである。

1167年に清盛は太政大臣になる。1179年長男の重盛が死んだとき、後白河は重盛の知行地(越前国)を没収する。これに怒った清盛は後白河を幽閉し、後白河の院政が停止する。

1180年、後白河の第2子以仁王(もちひと)が平家追討の令旨を各地に発し、京では源頼政、木曽では源義仲、伊豆では源頼朝が挙兵する。 1181年清盛が亡くなると平氏は力を失っていく。1183年、義仲が入京し平氏は西国へと都落ちする。


後白河は、初めは頼朝に義仲追討を命じて義経に義仲を討たせ→義経が平家を滅ぼすと→義経に頼朝を討つよう命じたが→義経が敗れると、頼朝に義経追討の院宣を出す。と次々に味方した者たちを討ちはたしていくのである。1192年に後白河が亡くなると、頼朝は鎌倉に幕府を開き、後白河に批判的であった九条兼実が関白になる。

法然は後白河法皇や九条兼実と同じ時代に生き、両者に授戒するなどの影響を与えている。後白河法皇に限っていえば、1188年後白河が行った如法教(書写)で先達を務める。1191年「往生要集」の講義をする。1192年後白河の臨終にあたり善知識を務める。など後白河が最も信頼した僧であった。

境内に「法然塔」の石碑があって「南無阿弥陀仏」が彫られている。1204年に後白河の13回忌をした際に、法然が書いた「六字名号」であると案内板にある。法然はこのような文字を書いたのか。


三十三間堂の背面。正面側は中央部に向拝と呼ばれる軒庇が出ているが、背面の軒先はまっすぐである。

江戸期にはここで「通し矢」が盛んに行われたと案内板にある。 手前の縁に座り、向うの縁まで約126mの距離に矢を射るのである。

矢は適切な角度をつけて、強く射なければ、軒と縁の間を通すことができない。途中で縁に落ちたり、軒の垂木に刺さったりする。方向を誤まれば柱に突き刺さる。

24時間かけて何本の矢を通すことができるかを、尾張藩と紀州藩が競ったという。13000何回射て、8000何本を射通したのが記録である、との説明が堂内にあった。


軒を見上げる。組手(くみて)は和様である。その後「日本建築様式史」(太田博太郎)、「日本建築のみかた」(宮元健次)といった本を読んだので、復習の意味で組手について書くと、
  1. は、柱である。柱は梁や桁を支えるものであるが、柱だけでは日本のように軒が出ている屋根を支えることはできないし、地震に対する強度が不足する。そこで「組手」が考えられた。

  2. 柱の上に「大斗(だいと)」という枡形を載せ、
  3. 「肘木(ひじき)」という舟形を左右(桁)方向に載せる。一方、前後(梁)方向にはEの梁材を載せる。

  4. 建物が小規模なときは肘木の上に直接に桁材を載せるが、
  5. 図では肘木の左右の端とEの梁の上の3か所に、桁をくわえる巻斗(まきと)を付けて、3か所で桁材を支えるようにしてある。これを「三斗組(みつどぐみ)」という。肘木に3つの巻斗が載っているからである。

  6. は、梁(はり)である。小さな建物では、梁の長さは柱まであればよいが、この図ではAの大斗から長めに出されている。
  7. その上に大斗が載せられ、
  8. 肘木が載り、

  9. 3か所に巻斗が据えられて、
  10. の桁材を支えている。これも「三斗組(みつどぐみ)」である。
    柱の上にある大斗から1つ飛び出してFにも大斗があるので「一手先(ひとてさき)」という。大規模な建物では、さらに大斗→さらに大斗と、柱の大斗から3つ飛び出す「三手先(みてさき)」が使われる。

  11. 柱の真上で桁材を支え、同時にHでIの桁材を支えるので、ここに載せる垂木(たるき)は、重い屋根瓦を載せても耐えることができるのである。
「通し矢」のことである。図では右から左に向かって矢を射るのである。よって矢が刺さらないように各部材の右側に鉄板を貼り付けてある。柱の右半分・大斗の右側・肘木の右・巻斗の右・垂木の右が赤茶色をしているのは鉄板の錆び色である。(ところどころ鉄板が貼ってない部分があるが、これは後に修繕した部分だろう)


軒下を見やっていくと、「あっ」。矢が垂木に刺さったままになっている。貼ってある鉄板の上に刺さっているのか、鉄板を貫いたのかわからないが、35間126mのうちに1本だけ矢が残っていた。

発見である。だが後で考えると、こんなことは誰かがすぐに気づいたはずである。抜こうと思えば抜けたはずである。これは寺が観光客のためにサービスで残したものかも知れない。



9:30になったので、京都国立博物館へ行く。今日は常設展は無料の日であるという。よって常設展をみるだけなら入場券は買わなくてよい。(通常は500円)。ラッキー。

歴史主義の第1世代、フランス派を代表する片山東熊(とうくま)の作品である。竣工は明治28年。



壁面は煉瓦で、煉瓦を分けるかのように角柱が貼付けられている。オーダーの連続である。 両翼にも小型のオーダーがあり、小さめのペディメントが載る。その上にはマンサード屋根。丸型の屋根窓がつく。フランス・バロックであろう。


正面は大きなオーダーで、3つのアーチ門があり、彫刻を施したエンタブラチュアの上に大きなペディメントが載る。



ペディメント内に施されたレリーフは何であろうか。右の女性は天照大神か神功皇后を外国人画家が描いたような表情であり、左はギリシャ神なのか中国の道士なのか正体不明の老人である。

中央のメダリオンの中心は「菊花」であろうが、両脇の勾玉状のものや菊花の上に載る三鈷杵(さんこしょ)風のものはいったいなんであるのか。

片山東熊は長州の下級武士の生まれである。藤森さんによると、山県有朋が率いる奇兵隊に入隊し、会津攻めに加わったそうである。曾禰達蔵は唐津藩の上級武士の出で、彰義隊とともに会津に籠城したという。歴史主義第1世代のこの2人は一時的には敵味方の対立関係にあったようである。

明治になって同じ建築の道を歩むのだが、片山は内務省を掌握していた山県の特別の支援があって、ほぼ日本人唯一の宮廷建築家として活躍した。

特別な支援とは、明治15年に行われたロシアのアレクサンドル3世の戴冠式に列席する随行員のひとりに選ばれ、『宮廷の儀礼と文化とそしてそれを包むバロック建築の豪壮華麗な空間を、目と耳とそして肌で味わうことができた』のである。


さらに延べ5年間にわたってヨーロッパの主要な王宮を訪ね、建築のみならず家具についても学び、本場の建築をつぶさに見てまわっている。

片山はロマノフ王朝の最後の豪華絢爛さを実見した日本でただ一人の宮廷建築家である。

写真は正面の門を内側から撮る。向うに白い京都タワーが見える。


博物館は秀吉時代の方広寺の寺域内に建てられている。今は小さい方広寺および豊国神社に寄ったが省略する。

大和大路を北に歩き五条通りに出た。写真は京都中央信用金庫五条支店。もとはタバコ王の村井吉兵衛が設立した村井銀行の五条支店である。竣工は大正13年ころ。設計は吉武長一と建築MAPにあるが、吉武は初めてである。

イオニア式のオーダーで構成される銀行らしい建物である。藤森さんの「日本の近代建築(下)」に吉武の村井銀行(大正2)の写真が掲載されてあるが、これはアメリカンボザール風の5階建ての大作である。だが村井銀行は現存しない。

規模が相当に小さいこの建物から吉武の作風を思うだけであるが、吉武は柱を強く強調し、陰影の濃い、メリハリの利いた建物にしていると感じる。


銀行脇の小道(新宮川町通り)を北上し、六波羅蜜寺へ着いた。

京都には古寺があるかといえば、それはイメージだけが先行していて、ほとんどの建物は江戸期に建てられたものである。西本願寺や知恩院がそうだし、相国寺・大徳寺・仁和寺もそうである。東本願寺にいたっては明治のものである。

平安期の平等院鳳凰堂は京都市内ではなく宇治にあるし、醍醐寺は伏見区とはいえ山を越した宇治に近いところにある。三千院は洛北をとおり越した北山にある。浄瑠璃寺は南に下って奈良との境の木津川市にある。

「洛中」にある寺では鎌倉期の大報恩寺(上京区)と三十三間堂(東山区)が最も古い寺ではないか。室町期になってもあまりない。六波羅蜜寺本堂(1366)→東寺の大師堂(1380)→東福寺の三門(1405)→八坂塔(1440)→慈照寺東求堂(1465)→慈照寺銀閣(1489)→伏見稲荷(1494)くらいである。

三十三間堂を見たので、私が調べたところでは市内で3番目に古い六波羅蜜寺をついでに見ようとやってきた。


六波羅の地には平家一門の館が立ち並んでいたという。木曽義仲の入京と平家の没落時に、この一帯は兵火によって丸焼けになったが、本堂だけは類焼を免れたという。

鎌倉幕府も六波羅に探題を置き、京都における政庁としたが、後醍醐天皇軍の千種忠顕・赤松円心・足利尊氏に攻められて陥落する。室町期の応仁の乱のときはどうであったのか。京都は都であったがゆえに動乱の地となり、京都にある室町期より古い寺はほんのわずかしか残っていない。

かろうじて焼失を免れた六波羅蜜寺(現在残っているのは1363年室町初期のもの)であるが、本堂は小さい。しかも昭和に解体修理したので色鮮やかになり、古寺の風格はない。

ややがっかりしたのだが、門内に掲示板があって、空也上人と平清盛の像の写真が貼ってあった。あれえ、空也上人像はここにあったのか。念仏を唱えたら「南無阿弥陀仏」の6字が仏の形になって現れたという、その像である。

これはすごい。拝観料500円を払って見る。空也像も清盛像も鎌倉期のもので写実的である。実によかった。2体の間を何度も行ったり来たりを繰り返して、大満足である。



寺を出て、民衆に語りかけ、民衆とともに何事かをなし、救済した僧は好きである。奈良期の道登、道昭そして行基(狭山池・昆陽池・泉橋・各地の布施屋)。平安期の空海、空也。鎌倉期の重源、西大寺の叡尊・忍性、一遍。

松原通りを東大路に向かっている。かつて平家や北条の政庁があった六波羅は完全に下町になっている。


東大路を少し北上。道の東に「月輪町」という町名がある。

九条兼実は「月の輪の関白」と呼ばれているから、このあたりに邸宅があったのか、などと思っているうちに八坂の塔が見えた。


その交差点の向かいにある「激安」と書いてある建物は、高松伸の設計になる元「パーラーオーバル」である。建築MAPによるとパチンコ店であったようだ。その後ディスカウントストアーになったようだが、今は店は閉じられている。

竣工は1993年とあるから、いまからわずか14年前に建てられたビルである。円形のアルミの壁面に平面のガラスを左側は埋め込み、右側はとび出させている。当時は人を驚かせる建物だったかと思うが、14年たつとアルミ壁はくすみ、ガラスの透明度は消えて、みすぼらしい。

対面する八坂塔は室町期(1440年)の建物である。数百年を経てますます人に馴染んでいくのに比べて、高松のビルは瞬間的な寿命であったといわざるをえない。(まあ商業ビルだからそういうものかも知れないが)


さらに東大路を北に歩き、安井北門通りを左折すると、「弥栄会館」があった。昭和11年の竣工・設計は木村得三郎である。木村の建物は先斗町歌舞練場を見ている。

建築MAPにはSRC造5階建てとあるが、勘定してみると7階ある。6階に相当する窓は小さいから、ここの階には部屋はないのかも知れない。7階に当たる部分は塔であるので勘定に入っていないのか。

屋根が目立つ建物である。1階の屋根は建物全体を覆うが、2階には一部分だけ屋根がある。屋根がない部分にはバルコニーがある。

3階は左には屋根があるが、右側にはない。


4階の屋根は3階の屋根よりも長い。正面の出っ張りに唐破風のような屋根があり、その右には屋根がなく、さらに右の突き出たところには屋根がある。

5階は左右ともに屋根がある。正面の屋根は一段高くなっていて、2重の裳階(もこし)屋根風である。その上にお堂のような塔が載る。




これほど屋根が重層するのは尋常ではない。

右図は薬師寺の金堂だが、2層であるのに屋根は4面ある。裳階(もこし)がついているためである。この建物を見ていると薬師寺を連想した。

木村は屋根を様々に組に合せて京都らしさを表現しようとしたかのようであるが、建物全体のバランスが取れていないように見える。


向うに見える鳥居は八坂神社のもの(正面ではない)



手前の道を右折したら、塔が見えた。

伊東忠太の「祇園閣」である。竣工は昭和2年。大倉喜八郎の求めによって伊東が建てた記念碑的な塔である。

大倉は大倉財閥の設立者である。大倉財閥は三井・三菱・住友のような巨大な財閥ではない。小財閥である。戊辰戦争のとき官軍に軍需品を売って大儲けをしたのが始まりであるという。

ここから大倉組商会(明治6年。のちに大倉商事。バブル後破綻)を作って貿易業に乗り出し、明治20年に日本土木の設立に参加する。日本土木が解散した後は大倉土木組(明治25年。のちに大成建設)を設立する。

帝国ホテル(明治33年)も大倉財閥のものであったが、戦後は手を引き、ホテルオークラを開業する。主に貿易と建築・土木を中心にした財閥であった。



大倉喜八郎は大規模に美術品を蒐集し、それを収めた大倉集古館を開設しているが、その建物も伊東が設計している。

藤田伝三郎の藤田財閥と似ている。藤田は西南戦争で陸軍に軍需物資を売って巨利を得る。明治14年に藤田組を組織し、建築土木(琵琶湖疎水の工事も請け負っている)で利益を積み、大阪紡績(のちの東洋紡)などを設立し、毎日新聞を再建した大阪の中堅財閥である。

藤田も大阪都島区に「藤田美術館」を持っている。藤田の邸宅は、大阪本邸が太閤園、東京別邸が椿山荘、箱根別邸が小湧園、京都別邸がホテルフジタになっているということだけでも藤田の資力がわかる。

祇園閣は大雲院の境内に建っている。門が閉ざされていたので、やむなく塀の外側から見る。2階ほどの高さがある石の基壇の上に2層の和風の建物が載せられている。屋根の上には尖塔が立つ。

すぐに連想するのは祇園祭の山鉾である。そのうちの長刀鉾あるいは函谷鉾のイメージである。



祇園閣から北に曲がって円山音楽堂の脇を過ぎると、広い参詣道がある。大谷祖廟(東大谷)であるが、行かない。



その斜め前に「長楽館」がある。ガーディナーの設計で、明治42年に竣工。

長楽館は村井吉兵衛の別荘であったが、いまはホテルになっている。村井はタバコ王と呼ばれている。タバコは煙管に詰めて吸うものだったが、両切り紙巻タバコを発売してタバコ業界のトップに立つ。ライバルは東京の天狗タバコこと岩谷商会であったという。

明治37年にタバコは専売法によって国有化された。当然に工場やブランド代などを含めて巨額の金額で買収されたことであろう。村井は村井銀行を設立して金融界に出る。 その村井銀行は昭和2年の大恐慌のとき、真っ先に倒産したという。

あとで知ったが、先に訪れた旧村井銀行五条支店の近くに煉瓦造の旧村井兄弟たばこ製造工場が残っているそうである。



ガーディナーの作品は前回、聖アグネス教会を見ている。それは教会であるのでゴシックであったが、長楽館は別荘であるからクラシックを基調としている。

1階は石積である。矩形の窓があり、2階の壁面はタイルが貼られ、庇のついた窓がある。その上の小窓は透かし彫りで覆われている。

道路側は半円形に出っ張っていて、2階の窓には円柱のオーダーがある。3階には角柱の小オーダー。角部は隅石が積んである。ルネッサンス風である。



長楽館の前は円山公園。むこうの大屋根は知恩院の御影堂だろうか。


知恩院三門。江戸初期の1619年に建立されている。建築MAPによると、桁行26.6m・棟高23.8mの現存する最大級の2重門。とある。

南禅寺三門も大きいが、これは桁行21.8m・棟高22.0mである。(東大寺南大門の棟高は25.4mという)

知恩院は浄土宗の総本山である。1603年、江戸に幕府を開いた家康は、すぐに知恩院の境内を拡張し、伽藍の大造営に着手した。それは徳川家の宗旨が浄土宗であったためである。

東京芝の増上寺は徳川家の菩提寺であるが、当然に浄土宗である。



三門の先に急な石段がある。本堂や方丈はその上にあるらしい。

法然の時期にはたいそうな寺ではなかった。法然が布教の根拠地とした吉水の禅室の様子が「法然上人絵伝」に描かれているが、桁行3間・梁間3間の正方形のようである。ここに1間幅の広縁がついている。

2間×2間には畳が敷いてある。広さは8畳ほどである。ここに襖を背にして法然が座る。そこから離れて畳敷きの際に高弟が座り、広縁にはその他の弟子や身分の高い聴聞者が座る。一般の聴聞者らは縁の先の庭に立って聞く。まあ小さい建物であった。



本堂(御影堂)は大きい。桁行11間・梁間9間(間口44.8m、奥行34.5m)とある。正面に出っ張っている向拝は5間で、徳川の葵紋の幔幕が下がっている。

ここが吉水の禅室があったところか...

丹羽さんの「親鸞」に当時まだ範宴と名乗っていた親鸞が吉水禅室を初めて訪れるくだりがある。

『弟子のニ三人が聴聞者を背にして座についた。念仏の声が聴聞者のあいだからおこった。

綽空(範宴)も唱えた。それは驟雨のように聞こえ、他の物音を埋めてしまった。口癖の念仏ではなく、はらの底から流れ出る声であった。

法然がすがたをあらわした。念仏の声は一段と高くなった。綽空は地面に腰を下ろした。』


法然を信じた弟子や信者を知れば、法然のすごさがわかる。まずは後白河法皇とその一門。ついで関白の九条兼実である。

法然は後白河の臨終善知識を務め、兼実が出家するときの戒師を務めている。兼実の臨終では法然が善知識となり往生に導くはずであったろうが、そうはならなかった。

後鳥羽上皇の命令によって、法然は1207年2月に讃岐に配流されたが、兼実はその2た月も経たない4月に亡くなったのである。


本堂から念仏が聞こえてくる。どのような節回しなのか聞いてみたいと思っていたが、ようやく聞くことができた。「なむあみだぶッ。なむあみだぶッ。なむあみだぶッ」である。

1198年に選択本願念仏集を選述したとき、法然の弟子のうち、真観房感西・善恵房証空(西山派第2祖)・安楽房遵西(念仏弾圧時に死罪)の3人が手伝っている。最も法然の説くことを理解していた弟子だったのであろう。

「選択本願念仏集」は門外不出の書であった。この書写を許された弟子は少ない。梅原猛さんの「法然の哀しみ(下)」の巻末にある年賦から拾ってみると、1199年に聖光房弁長(鎮西派第2祖)、1204年に隆覚、成覚房幸西(阿波へ配流)、1205年に親鸞(浄土真宗開祖)がいる。


知恩院をでる。道の右は青蓮院。

法然の最期まで付き添っていたのは勢観房源智(百万遍知恩寺)である。ほかに京には配流を免れた証空(その孫弟子が一遍になる)も残っていたが、教団として組織することは積極的ではなかった。特に源智は隠遁を望んだようである。

聖光房弁長はもともと九州で布教しており、流罪にはならなかった。その弟子の良忠が京に出てきて知恩院を建立し、今日の浄土宗教団になった。いわば傍系が法然の跡を継いだわけである。


神宮道(じんぐうみち)を5〜600mほど北上すると平安神宮の大鳥居が見える。ここは左京区である。


橋は琵琶湖疎水に架かっている。今は渡らずに左折する。


「藤井斉成会有鄰館」を見るためである。中国美術品が蒐集されているらしい。竣工は大正15年。設計は武田五一。

遠目に見ると、アーチ窓や赤瓦はスパニッシュかと思われる。前回見た「京大人文科学研究所」を連想する。

しかし屋上にある塔は中国風である。これは武田が設計したものではなく、収集品のひとつであるという。


3階のベランダの模様は中国風か。出入り口のアーチは一般的だが開口部は角型である。これもスパニッシュとはいえない。

入り口の両脇に据えられた獅子像(狛犬?)も収集品のひとつであろう。当然に中国。


アーチの内部のレリーフは龍である。左右から2匹の龍が登っている。

遠目にはスパニッシュかと思ったが、意匠は中国風である。壁に貼られた花状の飾りも宝相紋・蓮華紋といった仏を飾る文様のイメージが湧く。


橋を渡って岡崎公園へ。疎水の向うの突き当たりが「南禅寺船溜り」なのだろう。


京都市美術館。竣工は昭和8年。設計は前田健二郎。京都市建築課がアレンジしたという。

帝冠様式である。洋風の壁面の上に日本伝統の破風が載っているのがそれである。

歴史主義第1世代は西洋の建築様式を学び、それをもとにクラシック・ゴシックを基調とした建築物を多く建てた。第2世代になると、日本の伝統様式をどう扱うかに意識が向けられるようになった。

日本の建物は木造である。木造であるがゆえの様式を持っている。石造の西洋建築技術で日本の伝統様式をどう扱えばよいのか。藤森さんは「日本の近代建築(下)」で次のように分類されている。
  1. 木造折衷様式。(木造の伝統様式に西洋様式を取り入れる)
  2. 進化主義(伝統様式をアレンジして石造技術(組積造)で造る)
  3. 近代和風(伝統様式をそのまま使う)
  4. 帝冠様式(壁は西洋様式で日本式の瓦屋根をおく)


@の例は、大和郡山城内にある旧奈良県図書館(清水卯兵衛)で見ている。

Aの例は伝道院(伊東忠太)と今日見た祇園閣(伊東忠太)。

Bはこれから行く平安神宮(木子清敬+伊東忠太)。

Cはこの京都市美術館である。

正面玄関の上に、銅製と思われる2本の飾りが載っているが、欄干の擬宝珠か五輪塔をイメージさせる。



美術館の前に京都府立図書館がある。明治42年の竣工。設計は武田五一。煉瓦造である。

クラシック調であるが、クラシック特有の様式はない。壁面を分割している柱は何々式と呼べる様式ではないし、正面上のアーチは弓形ペディメントに似ているが異なる。

柱(といってよいのかどうか)は飛び出さず、窓の見込みも浅く、壁面はぺったりした感じを受ける。これが藤森さんのいわれる『奥行きを消した版画的な印象の壁面』であろう。



京都では武田の建物を多く見ることができた。
  1. 京都府立図書館(明治42)
  2. 京大建築学教室本部(大正11)
  3. 藤井斉成会有鄰館(大正15)
  4. 毎日新聞京都支局(昭和3)
  5. 京大人文科学研究所(昭和5)
  6. 京都市役所本館(昭和6)
  7. 関西電力京都支店(昭和12)
ぺったり感(版画的)が強いのは、@BDであろうが、私はこの3つが好きである。この3つは明治42年から昭和5年にかけての約20年間にわたるものだから、たぶんこれが武田の感性であろう。



雨が降り出した。図書館入り口前で雨宿りをする。前に京都市美術館が見える。正面屋根は破風だけが見えていたが、遠くからみるとその後ろに寄せ棟の大きな屋根が載っていることがわかる。

建築MAPを手にしているので館内に入るのがはばかられ、入り口前に立っていたのだが、パンやジュース・弁当を袋にさげて入館する人がある。

館内には図書室ばかりではなく、弁当を食べることができる部屋があるのか。入ってみたら休憩室があった。コーヒーの自販機がある。しかも喫煙室もある。

一服しつつコーヒーを飲んで建築MAPを見て予習をし、ときどき窓の外に目をやって雨がやむのを待つ。



平安神宮の応天門。

明治には多くの神社が新規に創られた。橿原神宮(神武天皇)、吉野神宮(後醍醐天皇)、湊川神社(楠木正成)などなどである。平安神宮もそうだが、当初は明治28年が平安遷都1100年にあたるので、その紀年殿を作ろうということから発足した。(以下は建築MAPの記事から抜粋)

京都の歴史を内外に知らしめるために大極殿を模造復元しようとなった。設計は宮内省技師の木子清敬(きよよし)と大学院生であった伊東忠太である。

木子は御所の棟梁出身であるから御所にある建物はお手のものである。伊東は明治26年に「法隆寺建築論」を発表しているので、建築家としては日本の伝統様式に最も明るいと抜擢されたのだろう。



大極殿

大極殿は残っていない。1177年に焼失したきり復旧されなかった。おそらく絵巻とか絵図に書かれているものを手がかりにし、同時代の建物を参考にして復元したと思われる。

復元された大極殿は原寸大ではなく、5/8に縮小されているそうである。

ところが、伊東らが復元作業中に、桓武天皇を祀る神社を創建しようということになった。大極殿の後ろに神社本殿が作られて、大極殿は拝殿とされた。復元された応天門は神社の神門になった。

平安神宮ができあがったのである。明治28年のことである。


大極殿の組手(くみて)を仰ぎ見る。

柱の真上の斗(ます)から、@の肘木が出て、Aの肘木を支持し、AはCの尾垂木を支持する。斗が3つ出ているから「三手先(みてさき)」である。またBが支持する肘木には3つの巻斗がついているので「三斗組(みつどくみ)」である。

この組手は「和様」である。ほかに中国で学んだ重源が東大寺南大門を再建したときに初めて使った「大仏様」や同時に中国から持ち帰った「禅宗様」がある。大極殿は当然に和様でなければならない。

(次図)宇治の平等院は中央に阿弥陀堂があり、そこから左右に翼廊が伸び、その先端に楼閣がある。十円玉の図をみるとわかる。大極殿も同じような構成であるが、両翼の楼閣は異様である。


おそらく途中で神社にする変更がなされたとき、この建物を付け加えたのかと推測するのだが、何かの復元ではあるまい。木子と伊東が自由に設計したものではないか。

平面は正方形だろう。1階の屋根は中心に向かって集まる寄棟(四注屋根)、その上に2層の高欄をもつ楼閣が載る。屋根は入母屋である。

1階の屋根の4つの隅棟の上には4つの小さい楼閣が載る。(「楼閣」といっているが、このような建物を何と呼ぶのか私は知っていない)。1階の屋根の上に都合5つの楼閣が載っているのは見たことがない。

伊東は、以下のようにインド・中国・日本の建築様式を自在に使い分けている。
  1. 明治26年、「法隆寺建築論」を発表。
  2. 明治28年、平安神宮(日本伝統様式)
  3. 明治35〜38年、中国・ビルマ・インド・トルコ・ギリシャ・エジプト・小アジアの建築を見て回る。
  4. 明治45年、伝道院(インド+ゴシック+日本)
  5. 大正9年、明治神宮(日本伝統様式)
  6. 昭和2年、大倉集古館(中国)
  7. 昭和2年、祇園閣(日本)
  8. 昭和9年、築地本願寺(インド)


平安神宮を出ると屋台の土産物屋が並んでいる。平安神宮の観光客の大半は外国人である。中国語と韓国語が飛び交っていた。ここへ英語が混じり、日本語はほとんど聞かれない。

平安神宮は、碧の瓦・丹の柱・白い壁と色彩が派手であるから外国人の「受け」がよいのだろう。



平安神宮の西北の隣に「武徳殿」がある。明治32年の竣工。設計は松室重光である。

藤森さんは、歴史主義の第2世代はどのような様式でもこなしたといわれる。なるほど松室は日本伝統様式もこなしている。

京都ハリストス正教会は明治36年、京都府庁旧館は明治37年の竣工である。同じ時期に和様、ロシアビザンチン、ルネッサンスあるいはフランスバロックの建物を作ったわけだ。

主面入り口前には「全日本プロレス」の大きなトレーラーが止まっていて邪魔である。



側面に回る。蔀戸(しとみど)が上げられている。柱の上には組手はない。肘木で桁を支えているだけで、シンプルである。(斗を介さずに桁を直接に受ける舟形の肘木を「舟肘木」というらしい)


(次図)背面。正面には車寄せがあったが、こちらにはないので建物の姿がよくわかる。
2階建てのように見えるが、そうではない。破風があるのが母屋である。母屋の屋根の下にある屋根は庇である。母屋の廻りに庇をつけ、庇を支える柱を立てて壁で囲うと、庇を張り出した分だけ建物の面積は広くなる。

多くは母屋が3間であれば、これに1間幅の庇をめぐらせるので、建物は5間に広がる。だが、この武徳殿は母屋に比べて庇が広く感じられる。庇の屋根が異常に大きく、しかもゆったりとした勾配である。





(左図)例えば東大寺の大仏殿は母屋が5間で、その廻りを1間の庇が取り巻いている。よって庇を支える柱は7間になる。

大仏殿の母屋が5間であり、庇部が7間であることは、柱を数えればわかるが、母屋の屋根の先(なんと呼ぶのか)と庇の屋根の先の差が庇の幅と見てもよい。図の大仏殿の母屋の屋根と庇の屋根は1間ほどであるので、1間幅の庇が取り巻いていると判断できる。

武徳殿の庇は広い感じである。シロートの判断では、母屋は5間で、2間幅の庇が母屋を取り巻いているのではないか。よって建物は桁行9間となる。


武徳殿は剣道や柔道の道場である。行ったときは剣道をしていた。それも竹刀や木刀ではなく刀を使っていた。ひとり一人が鞘から刀を抜き、刀を振る練習をしている。

怖そうな師範とか師範代とでもいうべき監督者が出入り口をうろうろしていたので、内部の柱がどのような間隔で立っているのかは覗えなかったが、たぶん母屋の柱が1間ごとに立っていて、その外側に庇の分だけの空間ができているはずである。ここが観覧席になるのか。

庇の屋根の反りは実にきれいである。松室のセンスのよさには、いつも感心させられる。


東大路を北上して近衛通りにあたると、京大楽友会館(竣工は大正14年)があった。前回はここを訪ねることはできなかったが、森田慶一が分離派を結成した時期の建物だそうなので、ぜひとも見たかったのだ。

表現派の建物は、前回多く見た。本野精吾(西陣織物館・大正3)、岩元禄(西陣電話局・大正11)、吉田鉄郎の(京都中央電話局上分局・大正12)の3つである。

この楽友会館で藤森さんが掲げられている表現派の全部の作品を見ることができた。


印象はスパニッシュである。平坦な白い壁に、1階は矩形、2階はアーチ窓が並ぶ。屋根瓦は赤茶色。装飾はなにもなく、落ち着いた上品さがある。

窓がよい。1階の手前の窓は広く取り、壁面があって3つの縦長の窓が並ぶ。2階は手前から2連のアーチ窓→5連のアーチ窓→2連のアーチ窓である。

1階は窓の大きさを変化させ、2階は同じ大きさのアーチ窓の組み合わせを変化させている。ここから小気味よいリズムが生まれている。とシロート。


表現派としての面目は、玄関(自転車やバイクが駐輪させてあっては、ポーティコとはいい難い)の庇である。

帽子のひさしのような形である。庇を支える柱は「Y」字形である。これは岩元禄の西陣電話局のアーチ形のレリーフに相当する。


近くに京大東南アジア研究センターがあったので寄ってみた。元は京都織物会社であったという。明治22年に竣工。この手の様式は見飽きているのだが、設計・施工が日本土木会社(推定)と建築MAPにあったので、見る気になった。

日本土木会社は、国の工事を一手に請負おうとして、大倉喜八郎・藤田伝三郎や渋沢栄一が明治20年に設立した会社である。当時の日本最大の建築会社であったが、国の工事は競争入札によるという法律ができたために解散する。

大倉はこれを受けついで大倉土木組を作る。これが今の大成建設の前身である。


鴨川に出た。4月7日に京都@で訪れたときは桜が満開であった。4月14日の京都Aでは桜の葉が出初めていた。今日の京都Bでは桜の若葉が青々としている。

今日の近代建築探訪は終わる。京都の訪問も終わる。

鴨川には白鷺がいる。合鴨もいる。当分は京都に来ることはないであろう。



今日は、名張までの直行便にあたった。よって水割り2缶+チューハイ1缶となる。

万歩計は23900歩だった。近代建築探訪としてはあほらしいことだが、六波羅蜜寺の空也上人像に最も感激し、知恩院ついで三十三間堂が印象に残った。近代建築は、武田の京都府立図書館、松室の武徳殿、森田の楽友会館がよかった。




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