
奈良の近代建築
No.59.....2007年5月12日(土曜)
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訪問順路...
奈良にわずかに残る近代建築を訪ねた。
- 奈良女子大
- 南都銀行本店
- 興福寺・三重塔・東金堂
- 奈良国立博物館
- 仏教美術資料研究センター
- 東大寺・南大門
- 春日大社
- 北山十八間戸
- 奈良少年刑務所
- 般若寺
- 大和郡山市民会館(大和郡山市)
- まちなみ交流センター(橿原市)
藤森照信さんの「日本の近代建築(上・下)」に出てくる奈良の近代建築は、
- 奈良帝室博物館(片山東熊)明治27
- 奈良県庁舎(長野宇平治)明治28。解体保存中
- 奈良県物産陳列所(関野貞)明治35
- 奈良県戦捷記念図書館(清水卯兵衛)明治41
- 奈良ホテル(辰野金吾)明治42
の5つだけである。このうち奈良県庁舎は解体保存されているので、見ることはできないし、奈良県戦捷記念図書館は大和郡山城内に移築されているので、奈良市内にはない。市内に残るのはわずか3点である。
大和郡山から奈良までの近鉄の沿線の風景はすばらしい。大和郡山駅を出るとすぐに大和郡山城が現れる。ついで西の京駅の手前右に薬師寺が、西の京駅をすぎると唐招提寺が見える。
まだ金堂の修復は終わっていないな。そう思うまもなく左手に垂仁天皇陵が現れる。西大寺で奈良線に乗り換えると、日本一豪華な路線となる。
電車は広大な平城宮跡を斜めに横断する。左手には大極殿が復元作業中である。右手の車窓をみると大きな朱雀門がある。すぐに左手に目を戻すと東院庭園を取り囲む築地塀が見える。電車の座席に座ったまま平城宮跡の全貌を見ることができるのである。
毎度のことながら少し興奮しつつ、8:40ころに近鉄奈良に着いた。駅前には行基像が立つ。像をしげしげと見ていたら、突然ザザーという音を発して噴水が吹き上げた。行基が立つ円錐状の石の土台に沿って水が噴出するのである。
菩提センナがやってくると聞いて、行基は難波津に迎えにいった。波頭に立って、センナの乗る舟が近づくのを見つめているようである。これまで何度か見ていたが単なる池であると思っていた。噴水の装置があったとは知らなかった。
歩いているのは「東向き商店街(北)」で、向かっているのは奈良女子大学である。明治期に建てられた校舎(重文)が残っているという。
9:00前なので観光客の姿は見えない。(またこのあたりには観光すべきものがない)
奈良女子大の正門。
門を入ると守衛室がある。ここで守衛さんに声をかけて写真撮影の許可をもらう。
入ったところに案内板があって、旧本館(旧奈良女子師範学校)とこの守衛室が明治42年の竣工で、重文であるとある。
(次図)
旧本館は木造2階建てである。1階は板張りで薄緑色に塗られている。2階は白壁で薄緑色に塗られた柱で壁面を画してある。
柱や梁が表に出ているところからハーフティンバー(半木造)で、様式はチューダーだとシロートは判断したが、京都でみた大丸ヴィラほど柱は太くない。柱や梁が細身であるので柔らかな優しいムードを持つ。
藤森さんのいわれるとこころでは、歴史主義第1世代は、@ドイツ派が大蔵省・内務省。Aフランス派が宮内省・文部省。Bイギリス派が日銀・逓信省・海軍省・陸軍省。といった省庁に基盤を築いていたそうである。
宮内省は片山東熊の独壇場であったはずである。しかし帝室博物館・赤坂離宮といった宮廷建築物は限られる。
最も多く建てられたのは文部省が管轄する官立の学校であろう。山口半六は文部省を背負っていたといってよい。例えば東大・京大の校舎建設は山口が着手している。
ここへ歴史主義第2世代が次々に加わってくるのであるが、歴史主義第2世代は、用途によってドイツ・フランス・イギリスのどのような様式の建物でも作る力を備えていた。藤森さんは広くヨーロッパ派と呼ばれている。
インターネットで探すと、設計者は文部省技師の山本治兵衛であると書いたHPが見つかった。
学校はゴシック(チューダーもその一部)で建てられるのが標準であったようである。山本もそれを踏襲したかと思われるが、そこに山口の「優しさ」のDNAを受け継いだのではないか。
優しさの現われは、白壁につけられた模様である。@正面2階の切妻には斜め材が埋め込まれているが、直線ではなく葉脈のように曲がっている。A軒下には丸窓を連想させるような舵輪状の模様。B窓の下のX字の模様は×の一方が曲げられている。Cその下の花弁状の模様は女子師範学校を考慮したものだろう。
板の貼りかたにも変化がつけてある。1階の窓までは板材は横に貼ってあるが、窓より上は縦に貼り、2階の窓下までは再び横に貼る。正面屋根の上の塔の土台は中心線に向かって斜め(ヘ字形)に貼ってある。
きめ細かなことである。
近鉄奈良駅まで引き返して、今度は「東向き商店街(南)」を南下する。おそらくはこの商店街が奈良では最も賑わっている通りだろう。登大路から三条通りまでおよそ200mほどの商店街である。
まだ9時台なので店は開いていない。開店が早い店のシャッターが上がる音がときどき聞こえてくる。
三条通りに出かかった角にオーダーを備えた銀行がある。この通りは何度か通っているはずだが、建築に意識が向いていないと、銀行があることはわかってもその建物の記憶はまったくない。
これが長野宇平治の手になる南都銀行(本店)である。いやしくも奈良県一の(昔風にいえば)地銀の本店がこのような商店街の中にあることも驚きである。
長野の手になる銀行は、大阪の旧鴻池銀行本店はいまやなく、藤森さんが感嘆された神戸の旧三井銀行神戸支店もない。ようやく長野の銀行が実見できる。
商店街のアーケードがじゃまなので、三条通りまで出た。
こちらが正面である。大正15年の竣工であるという。
柱頭にイオニア式の渦巻きがある独立円柱が4本ならぶオーダーである。これが長野の作品か・・・
やっと見ることができた長野であるが、さほど感激が湧かない。古典主義を極めたといわれる長野の作品であるのにどうしたことか。こんなはずではないと戸惑ってしまった。悪くはない。まとまっている。だがなぜ感動できないのか。
第1は建物が小さいことであろう。小さな建物に大きなオーダーは不釣合いである。
第2に壁面にタイルが貼ってあることである。このテカテカ光るタイルと御影石のオーダーはマッチングしていない。
第3に(私が思っている)長野らしからぬ装飾である。
様式どおりであれば、イオニア式の円柱は、溝が掘られた柱身の下にベースと呼ばれる円盤があり、その下にペデスタルと呼ばれる方形の柱台だけがあるはずである。
しかしこの柱の下部には羊と思われる彫刻がほどこされている。シロートの私にとっては、クラシックの中心要素であるオーダーの円柱にこのような彫刻をした例を知らない。このために円柱の長さが不足してオーダーのバランスが悪い。
この建物は本当に長野の設計どおりのものなのであろうか。深緑色のテカテカのタイルは長野の指示によるものなのか。窓は大きな1枚のガラスになっているが、大正15年にこのような窓を作ることができたのか。
曾禰・中條の設計による大阪の旧三井銀大阪支店のほうが、よほど端正である。長野は規模の小さい建物に、装飾を詰め込みすぎた感じがする。
南都銀行の沿革を調べると、昭和9年に六十八銀・吉野銀・八木銀・御所銀が合併して南都銀行ができている。六十八銀の本店は大和郡山市であった。吉野銀とは吉野一帯、八木銀とは橿原市や高田市一帯、御所銀は御所周辺を地盤にした銀行であったのだろう。
これら4銀行は奈良市を基盤とした銀行ではない。南都銀行は、六十八銀の奈良支店にしか過ぎなかった店を本店にした。
長野が作ったのは地方銀行である六十八銀の奈良支店である。商店街の中にある小さい建物である。その程度の規模の建物であったのだが、施主の六十八銀からはああしてほしい、こうしてほしいの注文がつけられたのかと思う。結果は長野の力量が発揮できず、こじんまりした建物になった。とシロートは感じた。
南都銀行から100mも離れていないところに興福寺がある。今日はたいして訪れるところもないので、寄り道して興福寺にいった。
石段は南円堂への道。途中左手に三重塔がある。
興福寺は五重塔が有名であるが、この三重塔も国宝である。
平安期(1143年)に建てられたが、平重衡の焼討ちによって焼失。鎌倉初期に再建されたという。(五重塔は室町期(1426年)の再建)
五重塔よりもこちらのほうが姿がよい。
ついでのことなので北円堂も。721年に建立され、鎌倉初期(1210年)に再建される。
鎌倉初期は平家の南都焼討ち(1180年)の後始末で大変だったようである。まずは東大寺の復興である。重源(ちょうげん)の勧進によって大仏は1184年に開眼し、その後大仏殿、南大門が再建(1199年)される。このとき重源は、それまでの和様ではなく大仏様という新様式を使って復興する。
興福寺も同様に復興を急ぐ。東大寺は鎌倉幕府が援助したが、興福寺は藤原氏の氏寺であるという性格から藤原氏および朝廷の支援による。
実際に建物を建てたのは、興福寺に所属する工匠と京都の工匠であったので、建築の様式はそれまでと同じ和様である。ここが大仏様を採用した東大寺と異なる。
3年前にやってきたとき、中金堂が再建されるとして工事用のフェンスで囲ってあった。少しはできたのかと思っていたが、何もできていない。
(向うの建物は仮金堂)
東金堂。
興福寺には3つの金堂があった。中心は中金堂で、東西に東金堂と西金堂である。仮金堂は江戸期のもので「仮」の建物なので規模も小さい。西金堂は北円堂と南円堂の中間にあったが、今はない。現存するのは東金堂だけである。
室町期(1415年)に再建されている。この建物はなかなか美しい。
近代建築探訪のおかげで、日本の伝統様式についても少しずつ知識が増えてきて、寺社を巡っても建築様式に気が向くようになった。
日本の建築物のみどころは、屋根とそれを支える組物であるという。日本は雨の多い国である。よって雨を防ぐということが第一番目に要求される。雨を防ぐのは屋根であるが、@雨が多いので急勾配をつけなければならない。A風が強いので軒先は長くなければならない。B重い瓦を葺かなければならない。を満足するものでなければならない。
- まず雨をすばやく排かせるために、屋根は急角度にせねばならない。当然に棟は高くなる。棟が高くなれば屋根の面積は広くなる。軒を張り出すと、屋根と同じ急角度にしては軒先が下がってしまい、家は暗く、風通しが悪くなる。
- そこで外壁より先の軒は緩い角度にして、採光・通風をよくする必要がある。家屋内は柱で支えているから問題はないが、軒が開けば開くほどこれを支えるものが必要になる。低い建物であれば軒柱で支えることが可能だが、大きな建物や五重塔となると軒柱は使えない。組物は外壁より外側の軒を支えるものである。この組物が屋根の下に陰影をつけ、日本の建築物の美しさを表現する。
組物の必要性は知っていたが、具体的に組物がどのようにして軒を支えているの知識はなかった。これは前回の三十三間堂を見てようやく理解できた。
- ところが、鎌倉期になると組物がさほど重要視されなくなる。桔木(はねぎ)が普及してくるのである。まだ理解ができていないのだが、桔木はテコの原理を応用したものであるという。たぶんこうだろうと図を描いてみた。
(B)の組物は、aにかかる垂直方向の力(重さ)をbで上向きに支えるから、aの重さに耐えるだけの組物を必要とする。(C)は(a-c)が一本の木材で、bを支点としている。aの垂直方向の力に対抗するにはcに垂直方向の力を加えればよい。片方(c)を下げれば片方(a)が上がるわけである。
これによって中規模の建物では組物は不必要になり、大規模建物でも組物の負担が減ってそれまでのように大層な組物がいらなくなったそうである。
東金堂の組物を見上げる。平安神宮と同じ三手先(みてさき)である。桔木(はねぎ)の例を見たことがないのでどのようなものか知らないが、東金堂は鎌倉期に復興されたときと同じ様式で立て直されたようである。
片山東熊の旧奈良帝室博物館である。竣工は明治27年。翌28年には旧京都帝室博物館を建てているから、この時期の片山は大忙しであっただろう。
案内板にはルネサンス高揚期の様式で、煉瓦造り石貼り。小屋組は木造である。とあった。
正面は4本の円柱と隅部が角柱。出入り口はアーチ形で上部にパネル、左右にメダリオンが貼ってある。その上に弓形ペディメントが載る。
左右に張り出し部がある。壁面は黄みのかかった石で、白い石を柱とするオーダーが連続する。柱と柱の間にはパネルが嵌め込まれている。両端部には小オーダーとペディメントを載せた窓がある。ほかに窓はない。
このオーダーの連続あるいは切り石積みの壁面がルネッサンス調だといえるが、装飾の多さはバロックであろう。
写真は背面。いまはこちらが入り口になっている。
旧京都帝室博物館(下図)と比べると、
- 京都はマンサード屋根だが、奈良は瓦である。
- 京都は正面部いっぱいの大きなペディメントが載るが、奈良は正面の半分ほどの弓形ペディメントである。
- 京都は左右に翼部があるが、奈良はない。
京都のほうが完成度が高いとシロートは思う。
京都・奈良ともに気になっていたのが、空白の装飾である。@のパネル、Aのメダリオン、Bのメダリオン、Cのメダリオン、Dのパネル、Eのエディキュラ、どれも空白である。空虚である。
人の顔を描いたとき、その目に黒目がなく全部が白目であるときの不気味さを思っていたのであるが、松室重光の京都府庁旧館のパネルも空白であったので、変な感じだがそういうものかと思っていた。
「日本建築様式史」(本田博太郎)を読んでいたら、このことについて説明があった。メダリオンとかパネルには、建物にいわれのある人物や家族の紋章などを浮き彫りにするためのものである。メダリオンに描かれるものは文化的象徴である。といわれる。
本田さんはこう書かれている。
『片山の最初期の作品である旧帝国奈良博物館、旧帝国京都博物館の外壁は、いずれも空白のメダイヨンの羅列である。空白が反復するその雰囲気は異常と思えるぐらいである(京都の正面のペディメントには、かろうじて日本古代の男女神が刻まれている)』
やはり異常だったのか。
『赤坂離宮(明治42)では、もしかしたら近代日本を象徴しようとしていたのかもしれない創意のある図像、彫刻でようやく満ちてくるようになる。』
旧奈良帝室博物館の竣工から15年かかって、メダリオンの中身(文化的象徴)が決まった。片山はここで西洋建築を完全に習熟したのである。
(赤坂離宮を見ていないので、どのような文化的象徴がメダリオンのモチーフになっているのかは知らない)
博物館の新館前を通って、関野貞(ただし)の旧奈良県物産陳列所に向かっている。今は国立博物館が管理する仏教美術資料研究センターになっているらしい。
関野の名前を知ったのは、平城宮跡を訪ねた3年前の1月のことであった。関野は明治28年に古社寺修理監督として奈良県へ赴任する。津藩士の北浦定政が調べた平城京の平面図をもとにして、関野が精密な平城京の復元図を作ったことを知った。
その1か月後に毛原廃寺を訪れたとき、関野が調査にやってきていることを知った。関野は奈良県全体を歩いているらしい。今年、近代建築の本を読み始めたら、関野は建築家でもあることを知った(歴史学者だと思っていた)。その建物が残っているというのである。
(次図)博物館の新館から出たとたんに、新館の裏側に和風の建築物が見えた。窓の形が伝統建築とは違っている。これであろう。正面が本館で、左右に両翼があり、廊下で繋がっているようである。残念なことに、右手の1階部分は博物館のコンクリート壁がじゃまをしているし、左側は手前の建物が見えなくしている。
どうやって行けばよいのか。近くで清掃をしている方に尋ねたら、ぐるっと回れば正面に出るが、中には入れない。とのことである。
「鴎外の門」の横手の道を進む。案内板によると、森鴎外は大正6年から帝室博物館の総長(東京・京都・奈良の博物館を統括する)の職にあり、正倉院宝庫の開封に立ち合うために毎年奈良へやってきて、来たときはここにあった宿舎で起居したそうである。
左側に回ると途中に門があって、鉄柵越しに、建物の左から正面にかけてを見ることができたのだが、見る角度が悪い。本館の窓や出入り口は見えない。
西洋の建築技術で日本の伝統様式をどう扱えばよいかの方向は4つあると、藤森さんはいっておられる。これは前回書いたが、そのひとつが「木造折衷様式」である。木造の伝統様式に西洋の様式を取り入れるのである。
木造折衷様式を考えだしたのは長野宇平治である。明治28年に奈良県庁舎を作っている。(この年に伊東忠太は大極殿を復元して平安神宮を完成させている)長野が木造折衷様式をとったのは、前年に竣工した旧奈良帝室博物館が古都の景観を乱したという批判が起きていたからである。
同じ明治28年に関野は奈良に赴任する。奈良の古社寺を保存するためであった。本田さんは前掲書の前書きに、次のように書かれている。
そのためには『各社寺の建物がいつ建てられたものであるかを調べ、最も古く、かつ傷みの甚だしいものから修理に着手しなければならなかった・・・・関野は、わずか半年で奈良県の古建築80棟を挙げ、その造立年代を記した報告書を県に提出している。まだ日本建築史の研究が始まったばかりのとき、関野の建立年代の判定に大きな過ちがなかったことは、驚嘆のほかはない。』
正面に回ってみたが、フェンスで囲まれているうえに蔓性の雑草が茂り、木立の枝がじゃまをして見えない。
関野は明治34年に工科大学の助教授として東京に戻るが、明治35年にこの建物を作る。関野の伝統様式についての造詣の深さから、関野に任せたのかと思われる。
この後、奈良公園内では木造折衷様式が定石となり、明治41年に奈良県戦捷記念図書館(清水卯兵衛)、明治42に奈良ホテル(辰野金吾)が建てられることになる。さすがの辰野もクイーンアン様式の煉瓦造は建てなかった。
フェンスの中に警備員らしき人がいたので、声をかけたら、水曜と金曜に博物館で手続きをすれば中に入れます。ということであった。それにしても残念である。そもそも博物館がじゃまをして奈良県物産陳列所を見えなくさせていることが間違っている。
東大寺にやってきた。大仏を見るのではなく、重源が再建した南大門の組物をじっくりと見たかった。
鎌倉期に入ってすぐに東大寺の再建が始まる。重源は初の「東大寺大勧進職(しき)」に就任する。大勧進職になると、公家や武家に対して公的な支援を要請できるのである。例えば各国の荘園にある木材の提供を要求することができ、実際に東大寺大仏殿の木材は周防国から運ばせている。
それでも大仏殿を再建できるほどの巨木はなかなか無かった。重源は「大仏様(だいぶつよう)」という新しい建築技術・手法を使って大仏殿・南大門を再建する。「大仏様」は中国福建省の建築様式であるという。
本田さんによれば、「大仏様」は以下の特徴を持つらしい。
- 貫(ぬき)・挿肘木(さしひじき)などの柱を貫通する部材を多用して、軸部を水平方向に固める。
- 挿肘木を重ねて軒の荷重を支える。
- 部材の継ぎ手が発達している。
- 虹梁(こうりょう)を用い、この上に束(つか)を載せて。柱を省略する。(まだまだあるが、以下は省略する)
軒を見上げると、柱から肘木がでていることがよくわかる。肘木は8重に重なっている(最も上の短い肘木までいれると9重)。肘木は1つおきに柱を貫通しているようである。
大仏様は、木材を節約するためばかりではなく、平安期以前の建築物がもつ構造上の欠陥を補うことであった。と本田さんはいわれている。構造上の欠陥とは水平方向の力に対して弱いことである。大きな地震が起きると、横揺れによって柱が倒れてしまうらしい。
門の内部を見上げる。貫通した肘木は梁となり、ここへ桁が交差して前後左右の水平方向の強度を保っているのか。水平材は7本あるようだ。
梁に使われている木材は確かに細い。梁を幾重にも重ねることで巨木を使わずに済ませていることがよくわかる。
仁王の頭上を見ると、縦横の梁ばかりではなく、斜めの梁もある。斜め方向からの力にも対応しているのか。
南大門は1199年に再建され、以来800年間立ち続けている。大仏殿は1567年に松永久秀の兵火によって炎上。120年間放置されたすえ1709年に縮小されて再建された。よって大仏様ではない。
東大寺から春日大社に行った。春日造の本家本元を見ようと、500円の拝観料を払ったが、中門の前までしか入れず、中門からは4つあるという本殿の全体は見ることができない。
さらに本殿に向けての撮影は禁止と立て札があって、「なんだ」。さっさと帰った。
参道の途中に鹿が巻物をくわえており、その巻物から水が滴っている手水があった。ここで手を清め、口を注いで帰る。参拝の順序が逆である。
まだ11:30である。時間があるので、般若寺に行くことにした。東大寺前からタクシーを拾ったら、700円ほどの距離だった。
少し手前の「北山十八間戸」で降りた。北山十八間戸(じゅうはちけんこ)は鎌倉期に、忍性(にんしょう)が作ったハンセン氏病患者の療養施設である。
建物は長い。18戸の病室と仏間があるという。道路から見ると、各部屋の板戸に「北山十八間戸」と彫ってある。
もとは般若寺の境内にあったというが、今は狭い場所にある。
この場所は高くなっている。平城山(ならやま)の裾にあたるのだろう。眼下に東大寺大仏殿が見える。
北に向いて坂道を登る。
北山十八間戸から2〜300mほど歩いた右手に煉瓦造の建物が見えた。奈良少年刑務所(旧奈良監獄)である。
正門。明治41年の竣工で、設計は司法省技師の山下啓次郎だという。
山下は工科大学校で辰野に教わっている。中條精一郎・長野宇平治・野口孫市・松室重光らのヨーロッパ派や武田五一・伊東忠太らの独自路線派と同じ歴史主義の第2世代である。
司法省というから各地に裁判所を建て、これを営繕するのが主な仕事であったかと思うが、山下は5つの監獄(千葉・金沢・奈良・長崎・鹿児島)を設計している。監獄建設のエキスパートだったようだ。
様式はゴシックである。アーチ門は白石と煉瓦を交互に埋め込む「まだらアーチ」である。これはビクトリアン・ゴシックに由来すると、藤森さんの本にあった。塔の2層目の窓の上下にある白い石の帯も、辰野の影響か。
刑務所であるから中に入るわけにはいかない。鉄製の門扉越しに内部を覗くと、正面にあるのは本館と呼ぶべきものであろう。これもゴシックである。
正面玄関と両翼を少し出張っらせて、1階2階にアーチ窓を空けている。窓の両サイドはパッドレス(控え壁)的な柱が貼り付けてある。
これまでに見たゴシック様式の建築は、@教会(大阪教会・聖アグネス教会)、A学校(同志社)、B裁判所(神戸地裁)、C陸軍(大阪砲兵工廠化学分析場)、などであった。宗教・教育・研究・審判といった分野の建物が多い。この刑務所も審判・教育というころからゴシック様式がふさわしいとされたのか。
奈良少年刑務所の住所は般若寺町である。昔は般若寺の寺域であったと思われるが、今では般若寺は小さくなって、寺の敷地は刑務所の1/10ほどであろうか。
般若寺の楼門が見えた。塀は化粧土が剥げ落ちている。門の前には木の柵で囲い立ち入りができなくなっている。楼門は国宝なのである。
般若寺の名を知ったのは、木津で平重衡の首洗い池を見てからである。南都を焼討ちにしたとき、東大寺・興福寺ばかりでなく、この般若寺も焼失した。重衡は1184年に一ノ谷の合戦で源氏方に捕らえられ、1185年に木津で斬首されるのだが、その首は般若寺に晒された。
その後、笠置山にいった折、駅前に笠置山に攻め寄せてくる北条幕府軍に立ち向かう天皇軍のモニュメントがあった。足助次郎は弓を引き、本性坊は大岩を投げつけようとしている。この本性坊は般若寺からかけつけた坊主であることを知った。
さらに吉川太平記を読んでいると、笠置山が陥落した後、大塔宮護良親王は般若寺に隠れていたが、捕縛の追っ手がやってくる。宮は大般若経の入っていた唐櫃に隠れ、難を逃れた。という記述があった。
訪ねた先で得た少しの知識が、別の訪問先でこれと関わりがあることを知り、思いがけない土地で網の目のように繋がっていくのは、テクテクをしていて最も愉快なところである。
拝観料400円を払って境内に入った。やや荒れ寺風である。檀徒がいない寺は観光化するしかない。この寺では観光化のための造作や作庭は手作りである。
梵鐘の下に観光地で顔だけを出して写真をとるパネルがある。パネルには忍者や鬼や桃太郎や乙姫様といった観光地ゆかりの人物が描かれるのだが、般若寺では仏様である。その絵はどう見てもシロートの手になるものである。
パネルの下にある「コスモス寺」の文字もそうである。
頂戴したパンフレットによると、夏咲きのコスモスが1万本、秋咲きのものが10万本植えてあるという。そのほかに冬に咲く水仙が1万本。梅雨どきのアジサイが500株とある。
年中なにかしらの花を咲かせて観光客の目を楽しませようとしているようだ。
京都の寺の庭園を思ってはいけない。なにしろ手作りの庭である。本堂の周りに配置された三十三所観音石像は、背後から山吹(?)の木が迫り、前面にはアジサイが像を隠すほどに若葉を伸ばしている。
手前の一画には竹の柵が作られテッセンが蔓を絡めている。
中央に立つのは重文の十三重塔(鎌倉期)。
般若寺は、もとは奈良期に聖武天皇が大般若経を奉納するとともに卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の寺としたのが発展の始まりである。平安期には学問寺となり学僧1000人を抱えたという。しかし南都焼討ちで灰燼に帰する。
平重衡の首がこの地に晒されたというのも、般若寺の怒りの強さのあらわれである。その後十三重塔が再建され、良恵上人が諸堂を再建し、
西大寺の叡尊が力を貸し、叡尊の弟子の忍性が北山十八間戸を作りと復興したようである(パンフレットによる)。
とはいいながら、現在残っている建物は、本堂と楼門(国宝)と経蔵(重文)の3つだけである。石灯篭、笠塔婆、十三重塔、三十三所観音石像といった石物が多い。
十三重塔は基壇の上に建っている。その基壇の上に小花が風にゆれている。花は「紫雲蘭(しうんらん)」というそうである。『仏を供養するお香の煙を「紫雲たなびく」と喩えるところからつけられた名前』であると、案内板にあった。
紫雲蘭を透かして楼門が見える。
紫雲蘭の種は寺で蒔いたものではなく、小鳥が運んできた種が自生したものであるそうだ。見れば基壇には石が敷きつめてある。石と石のわずかな隙間に紫雲蘭が生え伸びている。よい眺めである。寺の関係者が手植えした花々と小鳥が運んだ小花。その先に国宝の楼門。ここが般若寺のよさであろう。
寺を出て楼門前から境内を覗く。中央に十三重塔、その奥に経蔵、手前に手作りの花壇。整然としてはいないが、鷹揚さがあってよい雰囲気である。
本堂には大塔宮が隠れたという唐櫃があったが、身を隠すには窮屈そうなサイズであった。叡尊の坐像は岩船寺にあったのと同じものであった。ここは真言律宗なのである。
先に「桔木(はねぎ)」が発達して、組物の必要度が減ったということを書いたが、般若寺の楼門の組物はまさにその典型で、外から見るとちゃんとした組物であるが、内部には組物はないそうである。(本田さんの前掲書に述べてあった)
今日のテクテクは終わる。バスに乗って近鉄奈良駅まで戻る。
奈良の近代建築は物足りなかった。当時批判された片山東熊の博物館は奈良公園に馴染んでいた。木造折衷様式にこだわることは無かったのである。
京都は近代建築を積極的に受け入れたようである。松室の京都府庁旧館は御所の近く、武田の府立図書館は岡崎公園、片山の京都博物館は三十三間堂に対峙する。琵琶湖疎水の煉瓦造の水路閣は南禅寺を横断しているのである。
京都は100年もすれば建物が風景に溶け込むことを知っていたが、奈良はそうではなかった。この違いであろう。
奈良に関野貞がやってこなかったら、今の奈良はなかったのではないか。関野が古社寺を調査し保存したからこそ、いまでは貴重な観光資源が残ったのである。
関野が平城京を調べたからこそ平城宮跡が保存されたのである。平城宮跡は今では世界遺産のひとつになっている。明治期には田んぼであったところがである。
奈良は関野に感謝せねばなるまい。その関野の建てた奈良県物産陳列所は、こともあろうに博物館の付属建物が視界をさえぎり、めぐらしたフェンスまわりには雑草が茂っていた。
関野に続く清水卯兵衛の奈良県戦捷記念図書館は、当初奈良公園にあったはずだが、大和郡山市に移築している。奈良の近代建築に対する扱いは粗略といわざるを得ない。
(上図)奈良市の近代建築には欲求不満が残ったので、帰り道に大和郡山城にある奈良県戦捷記念図書館(郡山市民会館)に寄った。
奈良県図書館(明治41年)は関野の物産陳列所と同じ平面である。正面にポーティコ、左右に翼を張り出す。窓のデザインは関野ほど変化はない。
(左図)ついでに大和八木で下車して、同じ清水の手になる旧高市郡教育博物館(まちなみ交流センター)を訪れた。これも平面は同じであるが、規模は陳列所→図書館→教育博物館の順に小さくなる。
関野の陳列所は平等院鳳凰堂を手本にしたというだけあって、両翼がぐーっと伸び、大きく堂々として、しかも法隆寺のような厳しさがある建物かと思われたが、全体を眺めることができなかったのは残念だった。
帰宅して顔を洗ったらヒリヒリする。一日でずいぶんと日焼けしたらしい。万歩計は25300歩だった。
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執筆:坂本 正治