法隆寺

    No.60.....2007年6月16日(土曜)


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法隆寺を訪れた。3度目であるが、前回訪れたのはたぶん30年も前のことか。

法隆寺は見るべきものが多すぎる。例えば建造物は国宝が18棟・重文が30棟ある。あの東大寺は国宝8棟、重文14棟である。仏像となると法隆寺は国宝18点・重文76点。東大寺は国宝13点・重文36点である。

リストを数えたので間違っているかも知れないが、これに壁画・絵画・工芸品・経典・書籍・古文書を加えると途方もない量の歴史・美術の大宝庫である。

とうてい1度や2度の訪問では見ることはできないし、予備知識を得るためには何冊かの本も読んでおかねばなるまい。これが法隆寺を敬遠していた理由だが、今日は「近代建築探訪」の最後のしあげとして訪ねることにした。見るのは建物である。


過去2度の訪問では、JR関西本線(大和路線)の法隆寺駅で下車して20分ほど歩いた記憶がある。JRの通っていない名張からはどう行けば短時間で行けるのか。調べると、近鉄京都線の筒井駅で下車して、王子行きのバス(奈良交通)に乗ればよいことを知った。

名張を6:27分の電車に乗り、筒井駅に着いたのは7:15ころ。バスに乗って写真の法隆寺前に着いたのは7:40ころか。道路は国道25号線。


少し西に歩くと法隆寺の参詣道があった。松並木の間を進めば南大門である。

工科大学校で辰野金吾から西洋の近代建築を教わった、歴史主義の第2世代のうちの何人かは日本の伝統様式について独自に研究する。その嚆矢が伊東忠太の「法隆寺建築論」(明治26)である。

伊東は法隆寺に出向いて調査し、法隆寺は世界最古の木造建築物であることを発見する。最古であることをいうには、各時代の建築様式を明らかにせねばならない。様式の特徴や様式から次の様式への転化の過程がわかっていなければならない。伊東はこれらのことを明確にしていたのであろう。


松並木道は300mほどあったか。左手に信貴山(奥のとがった一番高い山)が見える。右端の山は矢田丘陵の南端で、法隆寺はこの山裾にある。

伝統様式を学ぶことは第2世代の風潮であったのかも知れない。 明治28年、伊東は元は御所の棟梁であった木子清敬(きよよし)と協同して平城京の大極殿を復元した(これが平安神宮)。同じ明治28年に長野宇平治が木造伝統様式の旧奈良県庁舎を建てている。

同じ年に関野貞(ただし)は古社寺修理監督として奈良県に赴任し、赴任後わずか半年で80棟の造立年代を判定し、大きな間違いがなかったという。伊東ばかりでなく長野や関野も伝統様式に明るかったわけである。

最も古い様式を持つ法隆寺を基準にして、シロートが得ているわずかの日本建築の様式の知識を実地で復習するつもりでやってきた。わずかの知識は、前回も掲げたが「日本建築様式史」(太田博太郎 監修)、「日本建築のみかた」(宮元健次)、「継手・仕口 日本建築の隠された知恵」(伊藤延男・田中文男・浜島正士)の3冊から得た。



南大門(国宝)。

この南大門は法隆寺としては新しい建物で、1435年に焼失した後、すぐに(1439年)再建された室町期の建物である。よって、鎌倉期に導入された大仏様あるいは禅宗様の特徴が見られる。



「継手・仕口」を読むと、大工がどのような工夫をしてきたかがわかって、実に面白い。

例えば軸部(柱)である。(図1)のように柱を立て、柱と柱を繋ぐときどうしたか、である。

(図2)柱の頭部に切り込みを入れて、ここへ梁や桁(水平材)を落とし込むのが最も簡単なやりかたである。柱の頭部を貫いているので「頭貫(かしらぬき)」と呼ぶ。

角にくる柱は「隅柱」(すみばしら)と呼ばれる。ここには2方向からの水平材が差し込まれる。(図3)では、
  1. 隅柱に「凹」の切り込みを2か所に入れて、水平材を落とし込む。
  2. 隅柱に「L」の切り込みを入れて、水平材の先を三角にカットして差し込む。(これは「留め(とめ)」という継手(つぎて)だそうだ)
  3. 水平材が長いときは、(図2)のように柱に切り込みを入れて、水平材を落とし込む。
  4. 水平材の長さが不足するときは、どこかで継がねばならない。柱に埋まった箇所で継ぐのが普通である。このとき2つの水平材に何の加工もせずに柱に落とし込むのを「突き付け」と呼ぶそうだ。
(A)や(B)の隅柱と水平材は繋がっていない。(D)の水平材どうしも繋がっていない。よって水平材が水平方向に動くと柱からはずれてしまう。法隆寺金堂はこのやり方であるという。隅柱の切り込みの形は(A)か(B)か、あるいはもっと複雑にしているのかは、外から見てもわからない。解体してみたら(A)であったそうである。



金堂のように頭貫を落とし込んだだけのときは、柱・隅柱が固定できず構造体としては弱い。そこで、(図4)のようなことが考えられた。

(E)の隅柱の頭部は「十」字に切込みを入れ、(図5)のように2本の水平材を直交させ、これを落とし込む。2本の直交する箇所は互いが水平材の厚さの半分を切り取られる。(これを「相欠き(あいかき)」と呼ぶそうである)。実際には図のような単純な「相欠き」ではなく、ほかの継手(例えば「蟻(あり)」)と組み合わせてある。

(E)の隅柱では水平材が柱から飛び出た格好になる。この飛び出た部分を「木鼻(きばな)」と呼び、繰形(くりがた)や渦紋あるいは象や獏(ばく)の彫刻を入れる。

(F)柱に落とし込む水平材には、一部を切り欠いて「凹」形にし、柱頭は「凸」形に切り込んで、水平材を落とし込むと凹凸ががっちりと組みあい、柱が固定される。

(G)継手も工夫される。図のような矢印形の雄雌(オスメス)を作って、上から嵌め込むと引っ張っても抜けなくなる。



南大門には木鼻があった。@の隅柱の柱頭の上でAの梁とBの桁が直交し、Aの先が柱から飛び出している。飛び出したCが「木鼻」である。

Bの先は、やはり柱の向うに飛び出して木鼻となっているはずである。Cの木鼻には彫刻が施されているが、それが何の模様かは今の私にはわからない。

木鼻で隅柱を固定する技術は、鎌倉期に重源が中国から導入した大仏様あるいは禅宗とともに入ってきた禅宗様で使われ始めた。

隅柱の柱頭には「十」字の切り込みがあり、水平材がそこで直交していること、直交しているがために木鼻があることを知ると、隅柱ひとつを見ても大工の知恵に感心する。


頭貫で柱を連結したとしても、これだけでは水平方向の強度が不十分である。地震の横ゆれや台風が来れば、横倒しになるだろう。

(図6)のように頭貫の上に桁や梁を重ねて補強する必要がある。 そのために組手(くみて)が考えられた。
  1. 柱の上(頭貫の上)に「大斗(だいと)」という斗(ます)が置かれる。
  2. 大斗の上には肘木が嵌め込まれる。
  3. 肘木で桁や梁を支えることもあるし、肘木の上に巻斗(まきと)という斗(ます)が置かれ、
  4. 巻斗で桁や梁を挟んで支える。
これによって、頭貫のほかの水平材が構造体に組み込まれることになる。


(図8)の(a)のように肘木の上に3つの斗が乗っているを「三斗(みつど)」といい、(b)のように2つの斗があるのを「双斗(ふたつど)」という。

(c)のように束(つか・短い柱)の上に1つの斗が乗っているのを「間斗(けんと)」または「間斗束(けんとづか)」という。


軒下から見上げると、
  1. 柱の上に「大斗」が載り、
  2. 桁と同じ方向に舟形の肘木が載るとともに、直交して梁方向に舟肘木が出ている。
  3. 桁方向の肘木には3つの斗(ます)が載り、軒桁(丸桁・がぎょう)を支えている。
    3つの斗が載るから「三斗組(みつどぐみ)」であり、梁方向に肘木が伸びているので「一手先(ひとてさき)」でもある。

  4. 奥の柱の上にも同じ組物(くみもの)がある。
  5. 柱と柱の間にも水平材を支えるしくみがある。頭貫の上に斗が置かれ、
  6. その上に肘木が嵌め込まれている。肘木には2つの斗が載っているから「双斗」である。この肘木は舟形ではない。蝶の羽のような形をしており、彫刻が施されている。禅宗様で「花肘木」というらしい。

  7. 花肘木に載る「双斗」は水平材を支えているが、その上にまた斗が載り、別の水平材を支える。
  8. さらにその上に斗があって垂木(たるき)を載せる桁を支えているようだ。


南大門から内が法隆寺である。中門(ちゅうもん)が見える。五重塔が見える。金堂は松の木に隠れて屋根の一部が見える。

法隆寺の、@中門、A金堂、B五重塔、C回廊 は7世紀後半の建物であるという。607年に聖徳太子が建立したが、670年に全焼し、その後に再建された。だが何年に建てられたかは不明である。

もし7世紀最後の699年に再建されたとしても、約1300年前の建物であることになる。飛鳥様式と呼ばれる古式の様式の建物群である。


中門(国宝)。桁行4間・梁間3間の二重門。間口が4間というのは異常である。中の2間が出入り口で、両脇の各1間には金剛力士像が立つ。

間口が4間(柱は5本)となると、中央に柱が立つことになる。中央の柱は出入り口としては邪魔であるので、太子の霊が出られないようにしてあるとの説も出てくる。

奥行きが3間というのも異例である(通常は2間)。手前の1間には力士像があるから、寺の中に2間分のスペースがあることになる。


まずは柱から。たしかに柱には膨らみがある。藤森照信さんの「日本の近代建築(下)」によれば、伊東忠太はこの中門とギリシャ神殿を比較し、
  1. 円柱はオーダーの列柱(シャフト)にあたり、
  2. 柱の上の斗は円柱の上のキャピタルにあたる。
  3. 頭貫から軒までの高さはエンタブラチュアの厚さと同じであり、
  4. 屋根の勾配はペディメントの角度に近い。
などを発表したという(明治26年。刊行は明治31年)

伊東はこの発見(?)によって、法隆寺の起源はギリシャにあるとして明治35年から3年間、中国・ベトナム・インド・トルコ・ギリシャ・エジプトなどへ出向いて研究するのである。この説はいまでは受け入れられていないようだが、「エンタシス」という言葉は広まった。



中門の軒は深い。これは金堂・五重塔もそうだが、一番外側の柱から5mは伸びているのではないか。この長い軒をどう支えるか。

@は垂木(たるき)である。この上に瓦を載せる。垂木には非常な重量がかかるから、5mもある垂木だけではこの重量を支え切れない。

Aそこで軒先の途中に桁(丸桁・がぎょう)を渡して垂木を支えることになる。

B「丸桁」は肘木・斗の組物で支える。その組物はC尾垂木(おだるき)で支え、尾垂木をD力肘木(ちからひじき)で支える。

力肘木を支えるのが柱の上に置かれたE組物(くみもの)である。


(次図)左は中門の組物、右は平安神宮の組物で和様の典型かと思う。どちらも目的は同じである。つまり@垂木を支える丸桁(がぎょう)を、A尾垂木で支え、B尾垂木を組物で支える、ということである。



中門のほうは、@大斗→A雲肘木→B力肘木→C尾垂木、と4種類の部材である。平安神宮のほうは、@大斗→A肘木→B斗(巻斗)→C肘木→D斗(方斗)→E尾垂木、と6種類の部材を使っている。

中門のA雲肘木は平安神宮の(A肘木+B巻斗)を兼ねているようである。B力肘木は平安神宮の(C肘木+D方斗)のうちのD方斗を省略したといえるか。

尾垂木の上の(斗+肘木)で丸桁を支えるのはどちらも同じだが、中門の肘木は雲形をしている。




軒の隅部。正面の軒と側面の軒は隅部で互いに45度の角度で接合している。接合部分には「隅木」と呼ばれる材が45度の角度で伸びているのを組物で支えている。

組物は先に見たものと同じである。すなわち@大斗→A雲肘木→B力肘木→C尾垂木、までは同じ。ただし45度の角度があるので、肘木や尾垂木は直角に出たものに比べて1.414倍ほど長くなる。また尾垂木の上に載る斗は、正面方向の丸桁と側面方向の丸桁が交差しているところを支えるので少し複雑になる。

隅部の肘木や尾垂木が、ほかのものより1.414倍長いということは、その分だけここに力がかかるということだろう。隅柱から黄色い線方向に2つの組物をして、45度の組物の負担を軽くするのが普通だと思うが、そうしてはいない。


二層を見上げる。軒下の組物は初層のものとまったく同じである。違うのは、二層目には高欄があること、連子窓があることである。

高欄は、@三斗組やA人字型割束(わりつか)で支えられている。B高欄の意匠は「卍崩し」である。ABは中国起源のものであるという。

その「卍崩し」だが、どう崩してあるのかわからない。「卍」は中心で十字 に交わるが、高欄の意匠には十字(4方向)で交わるところはない。「T」や「ト」や「逆T」の3方向で交わっている。帰宅してあれこれ崩してみたが、2時間かけてもわからなかった。

(次図)中門の右には阿形(あぎょう)、左には吽形(うんぎょう)の金剛力士像(塑像)がある。重文。




回廊の南西角が観光客の入り口である。8:00である。開場の合図があったので入ると、一番乗りである。

拝観料は1000円。1枚のチケットで西院伽藍・東院伽藍・大宝蔵院の3か所の見学ができるのだから、格安といってよい。


西南隅の回廊にいる。右手に中門の屋根、左手に五重塔の屋根、中央に金堂、その向うに回廊が見える。

観光客は誰もいない。作務衣を着た、坊さんか法隆寺の職員かボランティアかはわからないが、10数名が掃除をしたり、改札口の脇にたむろしているばかりである。



法隆寺の内側から見た中門である。

うん? @初層の5本の柱の繋ぎかたが外側とは違うようである。柱の上に頭貫(かしらぬき)が水平に通り、その上に組物があるのはよい。頭貫の下に水平材が通してあるのではないか?

加えて、A初層の屋根瓦が変である。全体は本瓦葺(丸瓦と平瓦を交互に葺く)であるが、中間部分が平瓦(桟瓦・さんがわら)になっているのではないか?



中門の下に行ってみた。 門扉の裏は2間である。外側の門扉の前の1間を加えて、奥行き3 間であることはわかった。

水平材のことである。 @は元からある「頭貫」である。柱の頭部と同じ高さにある。Aは柱を貫通している。Bもそうである。後に修繕や補強が行われたようである。

中門にある金剛力士像は711年に作られた記録があるので、中門はそれ以前に建てられていたといわれている。写真のように水平材を柱に貫通させて軸部を固定する方法は、大仏様や禅宗様がもたらされた鎌倉期以降のことであるから、補強工事は鎌倉期以降のことであろう。

法隆寺の休憩所で買った「法隆寺ハンドブック」(500円)によると、1605年(慶長10)に豊臣秀頼が全伽藍を修理、1696年(元禄9)に全伽藍の大修理をした、との年表があったので、このどちらかのときに補強されたようだ。

正面からはわからなかったものを見ることができた。Cは雲肘木である。Dの力肘木を支えている。 力肘木はずいぶん長い。柱の外に出たものよりも、柱のうちにあるほうがよほど長い。奥の柱の大斗まで伸びている。そうでなければEの尾垂木→丸桁→垂木→瓦 を支えることはできないのだろう。



C雲肘木は柱を中心にして外部と内部に出ているが、内部に出ている長さは、外部に出ている長さの半分くらいであった。

本瓦の中の平瓦については、作務衣を着て掃除をされている方に尋ねたら、「軒先には雨樋がないので、2階の屋根から落ちる雨垂れから1階の屋根を守るためである」とのことであった。

なるほど平瓦が敷かれているのは初層だけである。2層目の屋根にはない。「雨垂れ、石をも穿つ」というから、初層の屋根瓦は傷むのだろう。

平瓦は時期がたてば取り替えるそうである。そういうことだったのか。


金堂(国宝)。北から見たもの。桁行5間・梁間4間の重層入母屋造。

2層目は桁行4間・梁間3間。中門と同じ高欄があり、連子窓がある。初層は裳階(もこし)が取り巻いているので、桁行9間・梁間7間に見える。

裳階は取ってつけたような感じもするし、いやこの裳階屋根と初層の屋根との間隔が狭いから建物が鋭く見えるのだと思ったりもする。裳階は妙に気になるのである。

おそらく再建当初、裳階はなかったであろう。裳階が無かったときの姿はどのようであったのか?

中門の柱を張りつけてみた。金堂に入って見学したら、内陣は3間×2間で、この廻りに5間×4間の外陣があった。5間×4間が元の金堂のサイズである。

「法隆寺ハンドブック」に載っている金堂平面図を見ると、南(正面)の桁行5間のうちの中央の3間が開口部である。東面と西面は4間のうちの1間が開口部であり、北面は桁行5間の中央の1間だけが開口部である。正面からはだいたい図のように見えるのではないか。

うーん。見慣れていないから、裳階がないと法隆寺の金堂らしくない。裳階屋根と初層の屋根の間隔が狭く、ライト兄弟が初めて飛ばした複葉機の羽のような形そのものがよいのか? 裳階のぐるりの連子窓の連続がリズムを与えているのか?


右図は薬師寺の金堂の側面である。創建時(718年)のものを昭和に復元したものである。当初から裳階をつけるように設計したならば、図のように初層を高くして、裳階とのバランスを配慮する。また側面は4間であるので1間幅の裳階をつけて6間の裳階とする。これが普通である。

法隆寺金堂は、桁行5間の母屋に9間の裳階だから、2間幅の裳階を巻いたわけだ。そうなら梁間4間に巻いた裳階は8間となるはずだが、実際には7間となっている。母屋と裳階の間が対応していないことは、裳階が後からつけられたという証拠の1つではないか。

薬師寺の裳階は1間幅であるので裳階屋根は初層の屋根よりも小さいが、法隆寺は裳階を幅広く巻いているので、裳階屋根と初層の屋根はほぼ同じ(やや裳階屋根が短い)である。薬師寺に比べてバランスがよいとはいえない。


右図は喜光寺の金堂である。喜光寺は721年に創建された。東大寺大仏の建造を指揮した行基が、奈良での滞在の場所とした寺である。この金堂は東大寺大仏殿(今の大仏殿ではない)を建てる際に手本となった建物で、「試みの大仏殿」と呼ばれている。(今の金堂は再建されたものである)

二重(2階建て)に見えるが、一重(1階建て)である(入ってみると2階はなく吹き抜けになっている)。桁行3間・梁間2間。ここに1間幅の裳階をつけて、桁行5間・梁間4間にしている。正面の1間は柱だけ立て、吹き放しにしている。

この建物も当初から裳階をつけることを考えて設計してある。ニ重に見せようとしたのであろう。裳階の高さは普通の建物の初層と同じ高さにしている。裳階より上の部分も高さがあり、明かり取りの窓がつけられているほどである。

裳階が高いので裳階屋根は一番上の大屋根よりも大きい。だから裳階屋根は大屋根よりも小さいとは限らないのであるが、それは喜光寺がニ重の建物に見えるように高い裳階をつけたからである。


法隆寺金堂に近づいて見る。
  1. 雲肘木が
  2. 力肘木を支え、これが
  3. 尾垂木を支え、これが丸桁(がぎょう)を支え、丸桁の上に地垂木が載る。これは中門と同じである。法隆寺(系)独特の組物である。

  4. Bの尾垂木の先の下に斗(ます)が置かれ、唐獅子らしい彫刻がこれを支えている。

  5. 唐獅子の彫刻は裳階の隅柱の上にある。つまり隅柱と唐獅子が「軒柱」となって尾垂木を支えているのである。 法隆寺の軒は深すぎる上、隅の軒を支える組物は45度に出た尾垂木だけであるから、軒柱を追加して補強せざるを得なかったようだ。

    ただし再建当時に裳階がなかったとすれば、裳階の隅柱は軒柱に利用されることはない。裳階をつけたときに軒柱に利用したのか、あるいはのちに隅柱の上に唐獅子を置いて軒柱としたのかだろう。唐獅子の彫刻というのが桃山期か江戸期のイメージを湧かせるから、獅子は慶長あるいは元禄の大修理のときに作られたのか?

  6. 裳階(もこし)の柱から細い肘木が出て、
  7. その肘木の上に「三斗組」が載って、裳階屋根を支えている。
  8. 柱からでている肘木は、柱に差し込んである。「挿肘木(さしひじき)」である。組物ではない。


挿肘木は鎌倉期以降のものだというから、裳階は鎌倉期以降に新しくつけられたか、古い裳階から新しいものに変えたかであろう。
  1. そう考えながら裳階屋根に目をやると、なんと板葺きである。小さい写真を見ていては板か瓦かということは判断できないし、第一板葺きであるとは考えもつかなかった。私にとっては大発見である。近くで掃除をされている作務衣(さっき平瓦の質問をした人と同じ。この方には金堂内でも多くのことを教えてもらった)の人に確認すると、「そうです」と平然といわれる。
薬師寺も喜光寺も裳階屋根は瓦葺きである。ここにも法隆寺の特異さがある。


ニ層目を見上げる。
  1. 雲肘木が
  2. 力肘木を支え、これが
  3. 尾垂木を支える。
  4. 尾垂木の先には斗が置かれ、雲形の肘木をくわえ、
  5. 雲形の肘木が水平材である丸桁(がぎょう)を支え、丸桁の上に地垂木が載る。これは一層目や中門と同じである。

  6. これは雲肘木であろう。
  7. 一層目と同じく隅の尾垂木は軒柱で補強されている。軒柱には龍の彫刻が施されている。元禄期の修復のときに付けられたという。

  8. 上層に高欄があり、人字形割束があること、
  9. 意匠は「卍崩し」であることは、中門と同じである。
  10. 金堂にも雨垂れ対策の平瓦が、本瓦の上に載せられている。
金堂の外観を見てから金堂内に入った。内陣には有名な釈迦三尊・薬師如来・阿弥陀如来の本尊とこれを囲む多聞天・持国天・増長天・広目天の四天王像があり、有名な金堂の壁画が復元されていた。暗いうえに金網越しに見るためよく見えない。懐中電灯が備えてあって、観光のガイドさんは仏像や壁画にライトをあてて説明するらしい。畏れ多いことである。


法隆寺の建物の特徴は、
  1. 雲形の彫刻(雲肘木)があること。
  2. 雲斗雲肘木のように組物が簡単であること。
  3. 軒が深いのに軒の垂木は1段(「一軒(ひとのき)」)であること (多くは2段(「二軒」ふたのき)にして軒先を延ばす)。
  4. 継手が少ないこと。柱と頭貫の仕口が簡単であること。
  5. 中国の様式があること(高欄の意匠の卍崩しと人字型割束)。
かと思うが、最も法隆寺らしいのは雲肘木と雲斗であろう。 「法隆寺ハンドブック」(手帳サイズで手帳にもなる)に右のような本堂の断面図があった。図には「雲斗雲肘木」(くもとくもひじき)と書いてある。



私は図の青緑色の部材は「雲肘木」であると思っていたが、「雲斗」でもあるらしい。

これまで学習したところでは、「斗(ます)」は「梁(はり)」や「桁(けた)」の水平材や「尾垂木」などの斜め材、あるいは水平材を支える「肘木」を挟んで固定するものである。「日本建築のみかた」(宮元 健次)には左図のものが掲げてある。

図では「大斗」の上に梁→肘木→桁の順に組み合わせてあるが、「斗」の上に桁が載ることもあるし、肘木が載ることもある(肘木の上には桁・梁などの水平材が載る)。

法隆寺の断面図では、@柱の上に大斗(青色)があり、A雲肘木(青緑色)が載って、B力肘木を支えているようになっている。その通りであるが、よく考えると雲肘木が力肘木を支えているのである。雲肘木の上に「斗」が載り、それが力肘木を固定するのが普通であろう。

私が雲肘木であると思っていた(青緑色)の部材には「斗」が載っているので「雲斗」と呼ばれているに違いない。ではどこに「雲斗」があるのか?なにしろ「雲斗雲肘木」は高いところにあるので遠望するしかない。遠目には判然としないのである。だが、あとで行った宝蔵院に「雲斗雲肘木」が陳列してあった。


別の休憩所で買った本の「法隆寺」(法隆寺発行)に宝蔵院で見た「雲斗雲肘木」の写真が載っている。右図である。
  1. が「雲肘木」であることはよい。写真は隅部にあるものなので、直交した肘木が「斗」で固定されているが、一方向だけの雲肘木も当然にある。

  2. は金堂の「雲斗雲肘木」である。白線部分で部材が分かれているならば、下から順に「雲肘木」、ここへ「雲斗」が3つ載り、「力肘木」を固定する。(力肘木は断面図の(黄色)にあるように1本の材なのだが、重さに耐えられずに折れたらしい。補修されて先の方は別の材が「突き付け」られていたようだ)

    雲肘木の上に雲斗が置かれている格好である。これだと「雲斗」と「雲肘木」が理解できる。しかし遠目に見たところでは雲肘木と雲斗は一体であるような感じであった。また「雲斗」が力肘木を挟んで固定しているようにも見えなかった。

  3. は五重塔の「雲斗雲肘木」。昭和の大修理で、老朽化していたものが取り外され、陳列されていた。説明では金堂のものは「力肘木」と「雲斗雲肘木」は別の部材であったが、五重塔のものは全部を1つの部材にしてある、と説明されている。
つまり金堂のものは「力肘木」と「雲斗をそなえた雲肘木」の2部材の組み合わせであり、五重塔のものは「力肘木+雲斗+雲肘木」の機能を1つの部材にまとめているのである。



五重塔(国宝)。東北方向から撮る。(正面から撮ると、右に金堂、左に五重塔だが、北から撮ると位置は逆になる)

法隆寺の建物の姿がよいのは、@軒が深いこと、A軒下の組物が簡単なので軒下がスッキリしていて、B鳥が羽を広げたように見える。のが理由のひとつかも知れない。

軒下をスッキリさせるために「雲斗雲肘木」のように組物を省略して一体化した部材を使っているのだが、それには大量の巨木が必要である。宝蔵院でみた「雲斗雲肘木」の高さは1mほど、長さは3mから3.5mはあったのではないか。

五重塔を遠望すると、軒下に見えるのは尾垂木だけである。柱からいきなり長い軒が外に広がっているように見える。


巨木が調達できないときは、深い軒は組物で支えるしかない。左図は興福寺五重塔の軒下、右図は法隆寺の2層目の軒下である。興福寺のほうは組物で「三手先(みてさき)」である。軒下はゴチャついている。法隆寺は雲斗雲肘木である。部品が少ないので、軒が鋭く見える。




五重塔は3間四方で、初層に5間の裳階がつく。造りは金堂や中門と同じである。
  1. 力肘木と一体になった雲斗雲肘木(これが金堂と異なる)が、
  2. 尾垂木を支え、
  3. 尾垂木の上に雲肘木を載せ、
  4. 丸桁(がぎょう)を支える。
  5. 地垂木は1本で軒を伸ばす「一軒(ひとのき)」であるのも金堂と同じ。

  6. Aの尾垂木の先の下に斗(ます)が置かれ、小鬼(邪鬼)の彫刻が尾垂木を支え、
  7. 裳階の隅柱とともに軒柱となっている。金堂は唐獅子であったがこちらは邪鬼。
  8. 裳階の柱からは「挿肘木(さしひじき)」が出て、
  9. 板葺き屋根を支えている。


ニ層より上を見る。
  1. 高欄がつき、意匠が卍崩しであるのは、金堂・中門と同じ。

  2. これは雲肘木なのか雲斗なのか迷うのであるが、中門と金堂と五重塔の形は少しずつ違っているようだ。



  1. 中門のものは、輪郭は雲形。
  2. 金堂のものは、輪郭は雲形で彫刻があるようだ。
  3. 五重塔のものは、輪郭は雲形で中央が繰り抜かれている。
(遠くから見ているので確かではない。すべての雲形に彫刻があるのかもしれない。)


裳階のことである。再建された当時は裳階はなかったということは、@初層と裳階のバランスが悪いこと、A裳階屋根が板葺きであること、B裳階の柱は角材であること、C挿肘木を使っていること、などからわかる。

裳階(もこし)がなかったときの五重塔の姿はどうだったのか? せっかくの写真にシロートが手を加えて申しわけないことだが、裳階を取り払ってみた(左図)。

金堂のときと同じである。裳階つきの五重塔に慣れているので、裳階がないと違和感がある。初層が頼りなく見える。だが今でこそ木地が現れて黒褐色の建物になっているが、当初はそうではなかったろう。四天王寺(右図)や薬師寺のように柱や高欄は丹色で塗られ、連子窓は碧色で塗られていただろう。

塔は赤・緑・白色の明色であった。明色は広がる感じを与え、暗色は縮む感じを与える。今は色が剥げて黒褐色になっているので、軒は刃のような鋭さを感じさせるのだが、もし褪色前に裳階があって塔と同様の色彩が施されていたならば、裳階は異様に大きく見えたのではなかろうか。 法隆寺が1300年の間に美しく枯れてきたから裳階が引き立つようになったのではないか。


東側の回廊から見た金堂・五重塔。裳階が広がっているので、大木の根が大地に張り出したような安定感がある。

しかし裳階がなければ当初の柱や頭貫や白壁や扉があらわになり、それはそれで見事なツーショットであろうと思われる。

金堂・五重塔・中門は飛鳥様式であるといわれる。雲肘木や雲斗がその代表であろう。

法隆寺は聖徳太子が創建した当初のものであるとされていたが、明治20年ころから再建されたものではないかの学説がでてきた。

「再建論」は日本書紀に670年に全焼したの記述があることが最大の根拠である。その後711年まで法隆寺の記述がないので、670年〜711年の間に再建されたとする。

「非再建論」は法隆寺が7世紀前半の飛鳥様式で建てられていることが一番の根拠であった。 伝統建築に明るい伊東忠太や関野貞(ただし)は「非再建論」に組したようである。非再建の理由は、
  1. 現在の法隆寺伽藍敷地内には焼失を示す遺物がない。
  2. 法隆寺は高麗尺(こまじゃく)で設計されている。奈良期の興福寺や薬師寺は唐尺(とうしゃく)である。
  3. 再建されたものであればなぜ、古い高麗尺を使い、古い飛鳥様式で建てたのか
と主張した。建築様式を研究した伊東・関野であるから、もっともな主張である。

しかし昭和14年に法隆寺回廊の外、南大門のずっと東に若草伽藍の跡が見つかり、ここから四天王寺式の塔と金堂の遺構が発掘された。出てきた瓦は飛鳥時代(大化改新より前)のものであった。 これによって法隆寺は再建されたものであることが明らかになったのであるが、ではなぜ飛鳥様式で再建したのか? の謎は残った。

さらに困ったことがある。仏像の年代およびその様式が変わってくる。例えば金堂で見た釈迦三尊像は北魏様式であるとされている。この光背に「太子の病気平癒を祈って造像を始めたが、太子は622年に亡くなり、その翌年の623年に完成した。造ったのは鞍首止利(くらつくりのおびと・とり)である。」といった銘文があるのである。

美術史家はこれをもって飛鳥期の仏像であるとしているが、法隆寺が670年に全焼したのであれば、釈迦三尊像は残ってはいまい。金銅仏であるから、それは何百Kgの重量であろうと思う。火事場から人手で運び出すことは到底できないだろう。すると現在ある釈迦三尊像は法隆寺が再建された時期に造られたもので、早くても白鳳期のものになる。そうならば光背の銘文はのちの時代に彫られたことになる。

光背の銘文が真正とするならば、全焼時に法隆寺には釈迦三尊像はなく、別の寺にあったものを再建後移してきたことになる。玉虫厨子はもと橘寺にあったそうだからその可能性もあるが、釈迦三尊と同じ様式の薬師如来像も別の寺にあったことになる。


回廊(国宝)を通って大講堂へ向かう。

回廊は当然に中門ができてから作られたものだろう。できた順番は、金堂→五重塔→中門→回廊で、その後に講堂・経蔵・鐘楼などができたのか?

回廊の外側には@連子窓、内側はエンタシスのA列柱である。回廊の幅は1間で、向き合った円柱をB虹梁(こうりょう)が繋ぐ。虹梁は左右の柱を繋ぐだけでなく、上にC叉首(さす)を載せ、D叉首の上に三斗組を据えて棟桁を支える。

虹梁とは虹のように曲がった梁であり、アーチのように上方からの力に耐える。その上の叉首(さす)も三角形で上方からの力に強い。この2重の仕組みで回廊の真ん中に柱を立てることなく回廊の屋根を支えているわけだ。

(次図)中央は大講堂(国宝)。右は鐘楼(国宝)、左は経蔵(国宝)。何もかもが国宝建物である。大講堂は、桁行9間・梁間4間。925年に落雷で焼失し、990年に再建されたので、金堂・五重塔・中門の飛鳥様式ではなく、平安期の和様である。当初は桁行8間であったが元禄の大修理のとき9間に延ばしたという。




大講堂の西にある経蔵(国宝)。桁行3間・梁間2間。この建物は747年の「法隆寺資財帳」にでているそうだから、金堂・五重塔・中門・回廊とともに生え抜きの建物であるわけだ。

「妻」の構造は初見である(今まで気にとめていなかったから)。

@は頭貫(かしらぬき)で、3本の柱を繋いでいる。
Aは虹梁(こうりょう)である。2間の長さの梁である。
B虹梁の上に2つの「蟇股(かえるまた)」が載り、
C1間の長さの虹梁を支える。
Dその虹梁の両端には「斗」が置かれて桁材を支え、
E虹梁の中央には蟇股が載っていて棟桁を支える。

虹梁の特性をうまく利用している。下の長い虹梁で柱を繋ぐとともに、垂直方向の力に強いことを利用して桁材を支えているわけだ。虹梁が2重になっているので「二重虹梁」と呼ぶそうだ。

  1. 「斗(ます)」は通常は柱の上に置かれる。柱の軸方向は強いから、だいたいが柱の真上に梁や桁を支える組物が置かれる。図の「三斗(みつど)」がそうである。

  2. 下に柱がないときは、そう重いものを支えることはできない。右図の「間斗(けんと)」は水平材の上に束(つか)を立て、斗(巻斗)を載せて桁や梁を支えるのだが、束の幅がせまいために束の下に集中して力がかかり、水平材が耐えられない。

  3. 水平材に接する面積を広げて、水平材にかかる力を分散すると、「束」よりも重いものを支えることができるようになる。これが「蟇股」であるらしい。「蟇股」の形はいろいろである。

経蔵を見上げる。
  1. 連子窓の上に「長押(なげし)」が見える。長押は柱の外側から柱を押さえ、柱と柱を固定する水平材である。

  2. 長いほうの虹梁は隅柱の上の斗で固定されている。

  3. 短いほうの虹梁には蟇股が置かれ、
  4. 蟇股の上の斗から肘木が出て、
  5. 斗を載せて、
  6. 棟桁を支えている。

  7. 垂木は「二軒(ふたのき)」である。地垂木があって、
  8. その上により角度が小さい「飛檐垂木(ひえん)」が載る。「檐」とは軒の意味である。
伊東忠太や関野貞がかつて何度も訪れた法隆寺である。彼らは法隆寺の何を見て、建築様式の研究をしたのであろうか。明治20年代には、「日本建築史」を研究する人間は皆無であったし、学問としても確立されてなく、文献もなかったのである。




西側の回廊。高低差がある斜面にあるから、垂直の縦材と斜めに傾いた横材を接合しなければならない。図は水平方向から5度ほど右上がりになっているから、

@土台に空けるホゾ穴と束のホゾは5度の角度をつける。
A柱に土台を通す切り込みは5度の角度をつける。
B連子を嵌め込む穴は5度の角度をつけて、ノミで菱形に空ける。
C連子窓下の腰長押は5度の角度をつけて円柱を押さえる。
D虹梁の上面と下面を5度カットする。
E虹梁を固定する斗は5度の角度をつけ、虹梁が収まる部分を5度傾ける。
F肘木を固定する斗は5度の角度をつけ、肘木に載せる斗は5度の角度をつける。
G軒桁を固定する斗は5度の角度をつける。

という大変な作業になる。


静かだった境内が急にザワついた。時刻は10:00である。回廊の改札の場所に戻ると、小学生と中学生の修学旅行客であふれている。これはいかん。

このあとも多くのものを見たのであるが、団体がドドーッとやって来て、ガイドさんの説明を聞き、終わったとたんに潮が引くように去っていくのである。

その場にじっといればまた一人二人の観光客だけに戻るのだが、10分もすれば次の大波がやってくる。じっくり見ることはかなわなくなった。

今日は多くのものを見過ぎて消化不良である。


8:00〜10:00までの2時間をかけて、法隆寺の中枢である回廊内の@中門、A金堂、B五重塔、C回廊、D経蔵を熱心に見た。平安期に再建されたE講堂(990年)、F鐘楼(1005年)の印象は弱かった。

回廊の外に出て、@聖霊院、A東室、B鋼封院、C食堂、D西円堂、E三経院、F西室、G東大門、H夢殿、I伝法院、J鐘楼(東伽藍)、の国宝建物をわずか1時間ほどで見たので、これらの印象はごく薄い。

さらには宝蔵院で1時間ほど、仏像・工芸品・絵画・壁画・古文書を見たが、見るべきものが多すぎて、さらに印象が薄くなった。ただそこには金堂の架構造の模型と五重塔の模型および雲斗雲肘木の現物があった。これはつぶさに見た。

「法隆寺ハンドブック」に掲載されている年表によると
  1. 昭和9年「昭和大修理」の起工式を行う。
  2. 17年 五重塔の解体修理を開始。
  3. 20年 金堂の解体修理を開始する。
  4. 24年 金堂壁画を焼失する。
  5. 27年 五重塔の修理が終わる。
  6. 29年 金堂の修理が終わる。
とある。その後も各建物の修理を行い、「昭和大修理」が完成したのは昭和60年のことである。修理だけで50年かかっている。法隆寺を1日で見ようというのがどだい無理なことである。5度6度と訪ねるべき寺であろう。

法隆寺南大門前の食堂で昼食をとって帰宅する。案外に歩いており、万歩計は15700歩だった。



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